もうずいぶん前、10年以上にもなるでしょうか、配達や外回りの営業を盛んにしていた頃、神戸は六甲山麓の教育環境に恵まれた? 住宅街の一軒を訪ねた。傾斜45度(はオーバーですが)の桜並木を登り詰める途中にそのお宅はありました。サクラは咲き終わった頃で、新緑の季節でした。 子どもさんに読ませる本の相談だったのですが、母親は記憶をたどりながら、「ええーっと、何だったかな? そうそう、エマニエルの冒険…」 私はレスポンス(応答)にちょっと間が入った。エマニエル…? ああ、あの遠慮のない裸の…エマニエルが何だったか判明するや、笑いを押し殺すのにどれほど腹筋を使ったことか。「ああ、エルマーの冒険…」と連想ゲームよろしく脳の記憶装置から回答が得られて、なにげなく返したけれども、エマニエルの物語も「冒険」だったのかもしれないですね。後日『エルマーのぼうけん』シリーズ3冊を無事届けましたが、連想ゲームに失敗していたら、「すみません、エマニエルのボーケンについては、あとで調べてご報告します」ということになったのかもしれない。 人の記憶はまったくあてにならない。いや、自分の記憶ですら、そうです。A新聞の第3面の下に広告があったはず…図書館までわざわざ出かけ、重い新聞の束を繰っても見つからなかったことは再々。だから、新聞に載っていたと言われても、100%信用しない、悪いけれど。 もともと、自信をもって間違える人は少ない。ある程度「確信」を持っている。出版社不明の書名を調べてもみつからないので、「どのようにしてお知りになりましたか?」と訊ねると、「××のワイドショーで放送されていました」。ああ、テレビか…聞き違えたのかも知れないなあ。 「斎藤茂太 自分の骨は拾えない 2000年6月」というメモで注文をもらった。著者の名前があるのでこの本は見つかりましたが、正しい書名は『骨は自分で拾えない』。著者名や発行年月までメモしてくださるのは優等生です。 どうにもしょうがないのは、今読んでいるらしい本の中に引用されている本の注文の場合。その本は読書中の本よりも古い本に違いない。読書中の本が古い本ならばもっと古い。著者の引用の仕方がまずいのか、目当ての本が見つからなくて困ることが多い。この場合も、「読んでいる本に載っていました」と一言申告してくれればどれだけ助かるか。著者によっては自著の刊行予告をする人もいるようで、「もう出ているはずだ」と注文してくる。予定したタイトルは変更になっているかもしれないし、予定通り出る本なんて、ごくごく有名な著者に限られるだろうし…。 不明の発行所や、あいまいな書名から正確な書名を探し出すのは、今やむずかしいことではありません。私の場合は、インターネット上の検索サイトでは、日外アソシェーツのBOOKPLUS・TRC・書協のブックス・国会図書館、そして各出版社のWebサイト、さらにYahoo!などの検索エンジンで、CD-ROMでは『書誌ナビ』などを駆使することで、90%以上(99%と表現してもいいかもしれません)は解決します。 探し出せないのは、未刊、ごく最近の刊行物。「探し出せない」は正確でなく、手間がかかりすぎるということになりますか。出版社がわかっていれば、電話して直接確かめるのが手っ取り早い。 ムックやコミックも探しにくい部類に入ります。そもそも、注文主(読者)が、何が「書籍扱い」で何が「雑誌扱い」(註1)なのか、未刊か既刊か、よくわかっていないことが多い。ましてや、コミックに「書籍扱い」と「雑誌扱い」があることなんて。某出版社の「+α文庫」と「+α新書」の違いに気づかず、取り違えるだけで事故になることも。どうしてこんな紛らわしいことをするんだろうと思う。この某出版社については「文芸文庫」「学術文庫」「一般の文庫」、これらの既刊・新刊の別、これを調べた上で発注方法を考えなくてはならない。何も考えずに注文短冊(註2)を取次にまわしてしまえばそれでもいいのですが、「入荷まで1か月以上かかる」は頻出するでしょう。1か月以上待って「品切」の事故伝が返されてくることもたびたびですから、書店の悩みのタネになっているはずです。注文主が「文庫」と明記しないことも多く、前述したように誤記も多く、某出版社の注文については、全点確認作業が必要です。ですから、あいまいな書名から本を見つけだすこと、こちらは容易な部類になるのです。 はい、ここまでの要点。──注文主(読者)は、「新刊・未刊」の区別をつけず、「書籍扱い・雑誌扱い」の認識は程遠く、読んでいる本をもっと深めたい欲求を満たしたいと思い、少し配慮して注文のメモを書いてくだされば間違いも混じる、などなど、そういう存在なのであります。これをやさしく受け入れるのが書店の役割ということになると思うのですが、どうでしょう? 某月某日、都内のY社に電話をした。注文した本が40日経っても来ないものがある。督促もしたのに、何も言ってこない。事故伝も返されてこないから、いったいどうなっているのだろう? 応対に出たのは女性(50歳代かな?) ●『書名A』とか『書名B』が入ってこないのですが、どうなっているのですか? ★よく売れているので、ありますが…(無いものと決めつけていたから、あっさり言われてしまって拍子抜け) ●そしたら、もう一度 出してくれません? ★取りに行ってくれませんがな。倉庫にありますけれど。 ●あるんだったら、取りに行ってくださいよ。 ★私はここに一人でいるから取りに行けません。社長が行くといいですが、なかなか行きません。 ●行かないって…? ★他の書店からも文句がいっぱい来ています。社長は2週間もあったら届けるなんていいますけれど、ぜんぜん行きません。 ●行ってくれないと、困るよ! (って、他人の私が言うセリフかな?) あのう、そこには何人いるんですか? ★私一人。男の人も一人いたんですが、病欠です。社長は関西へ出張中です。 ●社長が営業したって、品物が出ないんだったら、どうするの? (私は、アタマがヘンになりそう。おかしくって笑いがこみあげてくる) どうするの? こっちが注文したものは、どうなってるの? ★ここにあります。いっぱい溜まってます。半年も前のもあります。 (ゲッ! もう、めちゃめちゃゲッ!!) ●えーーーっ、そんなん、あかんわあ。…。(あきれて言葉を失う…) ★社長にまた言います。話し合っときます。 (話し合っても、もうあかんわ) ●もうええですわ。あきらめます。 これは作り話ではありません。ホントにあった話。1998年のこと。出版社の中には個性の強いところもある。だけど、これほどのは初めての経験。データベースを調べてみると、この出版社はしばらく出版活動をしていない。廃業こそしてないだけ。あ〜あ。 今日明日にでも欲しい本を調達するのは、無店舗(在庫なし)注文専門の当店にとっては原則出来ない相談。出版社から直送依頼して急場をしのぐこともありますが。 現物を見て購入を決めることもできません。しかしながら、近くに本屋がない・本屋に行く暇がないとか、あまり細かいことは気にしないとか、人混みが嫌いだとか、積極派としては、ヒントブックスなら「かかりつけの本屋・馴染みの本屋」にいいということで、会員希望の人たちはいるものです。潜在的には数万人(オーバーかな?)は、いると思うのですが、PRが行き届かなく、これはこれでむずかしい課題です。 ホームドクターのように、この本ならば、ここに行きなさい、つまり、この方法で調達しよう。検査入院したならば、つまり、色々問診して本を探しましょう。このような作業というか仕事が書店でこなせたら、新刊のベストセラー追いばかりでなく、旧刊の宝の山をもっと掘り起こせるように思うし、そこに書店のプロとしての魅力があると思うのですが、どうでしょう? 数千あるといわれる出版社の出版活動は、本来そういう趣旨だったのではなかったでしょうか? 昨今、「客注」の調達方法について、流通業界ではインターネット書店隆盛の影響もあいまって、遅れまじと「新システム・新方式」が稼働し始めましたが、コンピュータがらみの物流テクニック先行型。読者が早い調達を望んでいるのは当然至極ですが、なんでもかでも特急を要求しているのではなく、より欲しいのは的確な情報であり、情報を値踏みするためのアドバイスだと思うのですが、どうでしょう。 よろしかったら、ヒントブックスのWebページを覗いていただけませんか? そこに「ブック海溝」というページへのリンクがあります。この原稿を書いている現在はまだ準備中ですが、ここに、本を調達したり探したりする役立ち? 情報を集めたいと考えています。読者の視点だけでなく、書店など業界関係者にも参考になれば、と思ったりしていますが、果たしてどうなりますか? 情報提供のご協力をいただける同業者がおられましたら大歓迎です。 同じトップページには「千冊万来」というブックガイドへのリンクもあります。これは会員に火水木金の週4日配布している『Book Boat』というメルマガを反映させたものです。オンライン書店の網羅的データベースとはまったく違う(真似なんてできないから初めから諦めていますが)もので、もっぱら問診用に使えないかな? と思い、日々増殖させています。『Book Boat』は会員専用ですが、業界の方に限り、ご希望でしたら送信いたしますのでお知らせください。 会員とのコミュニケーション誌『さーがす』を月刊で発行しています。こちらの購読希望は会員になってくださいね。 さて、後半はヒントブックスのPRに熱心になってしまいましたが、「客注」とか「注文品」というものは、「新刊委託」に対して、例外のような扱いを受けているのが業界の現実です。このことが、読者と書店(出版社)との間にトラブルを絶え間なく製造しているように思います。再販制度(再販売価格維持制度/定価販売のこと)がなくなり「新刊委託」が「買切」になってしまえば、「注文」はやっとフツーに扱われるようになるのでしょうか? 事はそう簡単でもないようにも思います。「注文品」とつきあい続けるのは、疲れますね。 ヒントブックスの会員、大募集中です。会員が増えれば、元気が出ます! よろしく!! ★ヒントブックス:http://homepage1.nifty.com/hint-yf/ 【編集部・註1】出版業界では、「書籍扱い」と「雑誌扱い」という2通りの流通があって、仕入・配本・請求の仕方が異なり、書籍扱いの雑誌(雑誌コードが付いていない)や雑誌扱いの書籍(新書判のコミック、ムックなど)があり、その外見だけでは区別できないことが多い。 【編集部・註2】「注文短冊」の「短冊」とは、注文書が短冊のような形式に由来した業界用語。本に挟んでいるスリップのことを「注文短冊」とも言う。 ■プロフィール■ (やまだ・としゆき)大学では理学部に在籍していたが、文学部の図書館学を履修。6年半で中退したので司書の資格はない。1984年、ヒントブックスを開業。それ以前に書店勤務経験はない。開業当初から出版社への直接注文に挑戦。当時は取次経由の注文が大勢だった。マンションの4階が自宅兼仕事場、つれあいと二人でヒントブックスを楽しくやっている。著書に『自立建築のあるまちづくり』(共著/北斗出版)がある。 ■(編集部からのコメント)山田さんたちが発行する会員誌『さーがす』は、顧客との強力なコミュニケーション・ツールになっており、またレファレンス・データとしても保存価値がある。同店は朝日新聞をはじめ業界紙等で、たびたび紹介されている。 |
今、最もヴィヴィッドな議論であるかに見え、かつ最も忌まわしい「対立図式」が、出版―書店業界を闊歩している。「リアル書店か/ヴァーチャル書店か」というオルターナティヴである。これは、「どちらが便利か?」という問いなのだろうか? 「どちらを利用すべきか?」というそれなのか? 更に進んで、「どちらが生き残るか?」を予見しようとするものなのか? いずれにせよ、「リアル書店」と「ヴァーチャル書店」を当然のように分断する「/」が、決して自明な分断ではないことを、そしてこうした安易な分断こそ、閉塞する出版―書店業界の迷走に更なる加速を加えていくことを明らかにするには、その両項(「リアル書店」と「ヴァーチャル書店」)が、それぞれ他項の中に本質を持つことを見出しその分断を止揚するくらいな気構えは必要だろう。小論に「弁証法的」などと古臭い、顰蹙ものの形容をつけた所以である。 「書店」とは、そもそも何なのか? 「リアル」と「ヴァーチャル」の両方に形容されているが故にその双方を分断している「基体」(?)を問うのが、本道だろう。そして、「書店」が商空間である以上、扱う商品を問うことが、その空間を問うことになる。ならば、「本」とは何であるか、が「書店」という空間を本質づけることとなる。 「本」ほど「ヴァーチャル」な商品は無い。その享受が、文字という最も抽象的な媒体を「読む」という行為によって、読者がイメージを再生産することにあるからだ。享受者のイマジネーションが最も要求される商品だからである。いつの頃からか、「精神世界の本」という範疇が、出版界に、そして書店の棚に登場したが、ぼくは、「精神世界」ではないような「本」が、どこに存在するんだ、「肉体世界」の「本」があるのなら、教えて欲しい、と毒づいていたものである。 もっとも、扱う商品が本質的に「ヴァーチャル」だから、「リアル書店」と「ヴァーチャル書店」に違いなど無い、などという乱暴な推論が成立するなどと主張するつもりはない。文字を媒介としたイメージの再現という享受は、例えば、インターネット上の様々な言説をダウンロードすることでも、果たされる。そこに「本」の物体性が、必ずしも要請されるわけではない。「読書」という享受が、「本」という物体を媒介としたもの/コンピュータのモニター画面などを媒体としたもの、というオルターナティヴを持ったことの方が、より大きな変化であることを指摘したいのである。この図式の中では、「リアル書店」も「ヴァーチャル書店」も前項に関係する。すなわち、双方とも物体としての「本」を販売することを目的とした「場」なのである。 皮肉なことに「ヴァーチャル書店」の登場は、「本」という媒体のしぶとさを証明することになっているとも言える。後者の享受を可能にしたインターネットを利用しながら、なおかつ物体としての「本」を販売しようという企図だからである。携帯性、アクセスの簡易性、電力やハードが不要、身についた習慣など、「本」のしぶとさの理由は色々と上げることができるだろうが、ここはそのことを詳論する場ではない。「本」を媒体としない新しい「読書」方法(文字によるイメージの再現、情報の享受)が登場した現在にあって、「リアル書店」も「ヴァーチャル書店」も「本」を媒体とする点では、同党派に与するということを、押さえておきたいのである。商売の本質である商品そのものが同一であるということは、「リアル」「ヴァーチャル」双方の書店の達成目標、そのためになすべき努力にも、相違点よりも共通点の方が多く見出されるであろう。 その意味で、「ヴァーチャル書店」が進歩するに従って、単なる書誌データの検索エンジンから、「リアル書店」の棚を擬したものを提供するようになったのは、象徴的である。だからといって、「ヴァーチャル書店」が「リアル書店」の模倣である、それゆえ「リアル書店」がより本質的な書店のありようなのだ、と「リアル書店」に軍配を上げるということにはならない。販売するものが同じ「本」である以上、「書店」の見せ方にも、当然共通項が多く見られる、ということなのだ。 つまり、「書店人」の仕事は、目の前の材料を、それが「本」そのものであっても、書誌データであっても、客に対して最も有効な見せ方をする、ということなのだ。客と「本」を出会わせるためのプレゼンテーションと言ってもいい。安藤哲也風(註)に言うなら、それは「棚を編集する」作業なのだ。そのことは、「リアル書店」においても「ヴァーチャル書店」においても、同じなのである。だから安藤氏が「リアル書店」から「ヴァーチャル書店」に職場を移したからといって、彼のスタンス、彼の仕事の本質は、全く変わらないであろう。 重要なのは、その仕事の本質が、常に客を意識したものであるかどうか、ではないか? 客の目を無視した商売など、そもそも成立しない。「リアル書店」を使う客と「ヴァーチャル書店」を使う客は、それぞれ違った層であるかもしれない。また、同じ客でも「リアル書店」を使う場合と「ヴァーチャル書店」を使う場合には、そのスタンス、要求が異なっているかもしれない。だとすれば、「リアル書店」と「ヴァーチャル書店」は対立するものであるというより、互いに補完するものである、と見た方が、より生産的ではないだろうか? コンピュータを操作しない人々、この人達は、完全に「リアル書店」の客である。そもそもコンピュータなしに「ヴァーチャル書店」の利用など出来ないからである。近年、コンピュータの普及率が急速に伸びたとは言え、使わない人がいなくなったわけではない(IT革命やEコマースの議論には、この事実が無視されているものが多い)。ましてや、コンピュータを使わないからといって本が買えなくなっていいわけが無い。むしろ、逆であろう。そうした読者にとって、「リアル書店」はこれからも不可欠のものである。 だからと言って、「リアル書店」にはコンピュータなど関係ないというわけではない。ポスレジや自動発注システムなど、業務的にも書店員をサポートしてくれるコンピュータだが、こと客との関係でいえば、その書誌データの充実、検索の簡便性・完全性から言って、コンピュータを使わない手はない。コンピュータを使わない読者のためにこそ、「リアル書店」は、成り代わって、コンピュータを駆使する必要があるのだ。その時、有力な武器となるのは、書誌データが充実し、アクセスや検索の簡便な「ヴァーチャル書店」であるかもしれない。 考えてみれば、従来の「リアル書店」においても、棚づくり、店づくりの基礎となっているのは、各社の目録であり、出版物リストであり、新刊案内である。それら、いわば「リアル」な「本」のインデックスを利用して、常備品や新刊の仕入れを行い、棚を、店を構成していく。そして、それらのデータは、現在既に、様々な形で電子データ化されている。それを用いて店づくりを行うことは、ますます普通のことになるだろうし、そうなると店づくりの作業は、「リアル書店」と「ヴァーチャル書店」で、違いがどんどん無くなっていくだろう。 もちろん、「リアル書店」と「ヴァーチャル書店」は、全く同じものではない。だが、本質的な違いは、店のありようそのものにあるわけではない。むしろ、読者の側が両者をうまく使い分けるようになることが予想されることを思えば、店と客の関係のありようにこそ本質的な違いがある、と言える。「リアル書店」においては、書店員と客という立場を全く異とする異邦人同士が直接にあいまみえることによる予想外の効果とリスクの双方が予想される、そこに「ヴァーチャル書店」との最も大きな違いが生じる、というのが私見であるが、予定の紙幅も尽きたようなので、またの機会に論じたい。 ★ジュンク堂書店:http://www.junkudo.co.jp/syohyou.htm ジュンク堂書店池袋店は、2001年には日本最大の巨大書店に増床します。 【編集部・註】東京・千駄木にあるユニークな「往来堂書店」の元店長で、棚構成の編集術に定評があり、現在はbk1に移籍。共著に『出版クラッシュ!?』(編書房)がある。 ■プロフィール■ (ふくしま・あきら)1959年生まれ。京都大学哲学科卒業。82年2月、ジュンク堂書店入社。現在、ジュンク堂書店池袋店副店長。日本出版学会、会員。著書に、『書店人のしごと』『書店人のこころ』(以上、三一書房)ある。また現在、Web「Chat noir Cafe′」サイトにおいて、「現役書店人によるショート・ショート・書評」を毎月掲載中。BR> |
2000年7月にインターネット上に開店した「bk1(ビーケーワン)」というオンライン書店で、僕は児童書・絵本・格闘技コーナーの担当エディターをやっています。いきなり宣伝になってしまいますが、bk1のコンテンツ面の充実振りは、現時点ではオンライン書店業界最強です。これは間違いなし。でも、元リアル書店員の僕は「オンライン書店というのはWebマガジンや書籍情報ポータルサイトでなく、書籍販売店である」という理念を持っていたりします。だから、児童書等の“編集”を担当しているというよりも、それらの“棚”を担当している気持ちが強いし、「売ってナンボ」という客商売気質が旺盛な次第です。書店員にとって一番楽しい作業は「棚を作ること」です。どんなお客様がその棚の前に立って、どの本を手に取るのか。じゃあ、その本の隣にはどの本を置いて“ついで買い”してもらおうか。曜日や時間によってその棚の前に立つ人の種類が変わるのなら、どのように棚構成でそれに対応してやろうか。なんてことを考えながら、サイトコンテンツの編集作業を毎日毎日やっています。 当社のスタッフ構成は例えるなら多国籍軍のようなもので、関連企業(TRC、日経BP社、電通)からの出向社員はもちろん多く、プロパー社員の経歴もなかなかバラエティに富んでいます。その中で、僕が所属する編集部のスタッフの経歴は、元雑誌・書籍編集組と元リアル書店組の2つに分かれます。そして、その元リアル書店組の中でも、純粋にそれの経験しか無いのはどうやら僕だけのようです。とにかく発想のベースがベタなリアル書店員なので、今回の面接時、社長からの「オンライン書店とリアル書店の一番の違いは何ですか?」という質問に、「それは万引が無いことです」と間髪入れずに即答する始末です(実話)。そのリアル書店しか経験していない人間がいきなりオンライン書店の児童書・絵本担当になってしまい、短期間でそれなりに考えた「オンライン書店で児童書を売るということ」をチョイトまとめてみようと思います。 まず、リアル書店での「児童書の見せ方」は大きく分けて2通り。 (1)子どもが探しやすい陳列 (2)大人が探しやすい陳列 実にシンプルですが、厳密にこの2通りしかありません。そして、オンライン書店では今のところ(1)は全く有効でありません。ネットに接続できて、カード決済も可能な小学生以下の子どもというのは、現状では皆無だろうし、いたとしてもなかなか気持ちの悪いものです。また、小学生以下の子どもは一人でリアル書店に来ることはほとんどなく、必然的に親とセットになりますが、親子揃ってパソコンの前でbk1を閲覧するというのはチョット想像し難いです。故に、現状では(1)は切り捨てています。将来的にはいろいろ考えていまして、戦略としては、子どものメールアドレス(最近は個人アドレスを持ってる子どもが増えているようです)を集めるところから始め、次にそれを狙って子ども用メールマガジンを送ります。そのメルマガは、その年代の子どもが読むには若干ハイブロウな話題を振ってやるわけです。そうすると子どもの関心を惹くことができるんですよね。とかって、こういうことを書いたら他社に真似されそうですね。 (2)の構成も、対象によって4通りに分かれます。 (a)子どもを持つ親。孫を持つ祖父母等。 (b)ファンタジー、メルヘンという切り口で接する大人。 (c)ファッションで児童書・絵本を読む大人。 (d)芸術という切り口で接する大人(美大生等)。 オンライン書店の競合店を見ると、大体はこの中の(b)〜(d)に対象を絞っています。TVスポットCMの多いbが頭文字につくもう一つのオンライン書店とかは確実にそうです。僕はこの点に関しては模索中です。(a)が間違いなくキーになる客層なので、bk1としても(a)を一番狙っているのですが、現状の方法(オンライン書店というWebサイト自体の)が正しいのかがまだ全然わかりません。主婦層がネットを見ることは普通になりましたが、それとオンライン書店を使うかはまた別の事項です。通販とオンライン物販ってのは基本的には同じなのですが、そこにはハードルがまだまだ存在します。その最大の問題は、実は(通信料が高いため)商品をゆっくり見れないことじゃないのかなあと思うのですが、その話は長くなるのでやめておきます。だから、やっぱり(b)〜(d)をより固く狙っています。 次に、児童書売上の新刊・既刊比率は極端なロングセラー偏重だったりします。新刊を直近3ヶ月以内に発売されたもの、既刊はそれ以前のものと定義すると、なんと、0.5:9.5の比率になってしまうのです。bk1の最大の売りは、自社在庫(約2万アイテム)は24時間以内出荷になるという点なのですが、そもそも24時間以内に欲しい本とはどういうものでしょうか。その最大公約数は“新刊”であることに異論は無いでしょう。その新刊がさっぱり売れないのが児童書なわけです。これは、児童書の最大客層である“子育て中の母親”の購買動機に原因があります。児童書というのは学習参考書同様、客層の大部分が毎年入れ替わるジャンルです。大部分の客層が、子どもが生まれると客層になり、そして、ある程度子どもが成長すると去っていくわけです。そして、その「子どもを持つ親」という層は一般的には保守的なため、実績の無い新刊がほとんど売れなく、「長く売れている=子どもに良い本である」という強力な保険が付いているロングセラーに人気が集まるわけです。ですが、bk1児童書・絵本サイトでは新刊に力を入れていたりします。実は、これは実験的にやってたりします。いや、試行錯誤しているのです。 新刊が売れないという点から、児童書はbk1の売りの一つである“予約”に全く向きません。ちなみに9月に発売された『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(静山社)のbk1での予約数は1025冊ですが、それは児童書にとっては例外中の例外です。ですので、数多く釣り針を垂らして、長時間粘ることを児童書予約コーナーの最初のテーマにしています。新刊を押すことは、予約を取りやすくすることにも関連しています。 そして、bk1の大きな売りの一つ(コレばっかり言ってますね)である膨大な書評ですが、児童書でも相当多く書評作成依頼を出しています。特に“識者”と呼ばれる方々に。そのことを「極上の1000冊」という切り口で大きく強調してはいるのですが、現在のところ、あまり大した効果は表れていません。僕は現時点では、「書評で書籍が売れる」とはちょっと思えないです。特に、児童書においては識者がおすすめすることよりも、多くの母親達が子ども達に読み聞かせた(つまり、ずっと売れているということ)という“保険”の方が全客層において大きいように感じます。ただし、投稿することによってポイントがサービスされる読者書評には期待しています。これはダイレクトに児童書好きな方の意見ですから。幸い、bk1の読者書評は児童書の比率が高く、これはネットにおける児童書のポジションが、リアルにおけるそれとは違う可能性があることを表していると思います。ただ、ネットにおいてこの層が厚く存在するということは、「子育て期間を過ぎても児童書に関心があるということ」が既にマニアックな行為ということも表しているような気がするんですよね…。子育てママさんで書評投稿する人は少ないと思いますもん。 正直なところ、リアル書店での児童書の売り方(対大人向けの)をそのまま応用すれば、少なくともリアル書店と同様のジャンル別売上シェアは達成できるでしょう。でも、それはつまらないのでしたくありません。それに、シェアだって全体のたった3%前後ですから。最大出資会社のTRC(図書館流通センター)は、顧客を図書館に限定しているので、EC(電子商取引)で言うなら、BtoB(企業対企業)の形態をとる書籍販売会社です。ウチは基本的にはBtoC(企業対消費者)な企業です。オンライン書店で児童書・絵本を売るという作業は、どう考えてもリアル書店以上に難儀でしょう。むしろ児童書・絵本の個人消費はますます落ち、BtoBが伸びていくのだろうなと考えています。でも、それだけにやりがいは過剰なくらいに感じていたりします。ぶっちゃけた言い方をすれば、そういう「実践の場」を与えてくれたことに感謝しています。ありがとうございます、社長。 オンライン書店bk1の児童書・絵本サイトが今後、どんな実験を繰り広げていくかに注目してください。それは、人間が生まれて初めて出会う「児童書・絵本」という書籍のジャンルが、もっともプログレッシブな媒体でどのような可能性を持つのかという、ひいては書籍全体の今後の指標になることだと僕は考えています。 ★オンラインブックストアbk1:http://www.bk1.co.jp/ ■プロフィール■ (ばば・しんや)1970年、大阪府生まれ。大学卒業後、株式会社くまざわブックチェーンに就職。いろいろあって4年後退職し、1年半の無職期間中にヨーロッパ15ヶ国をぶらぶら一人旅し、帰国後絵本読み聞かせのボランティア等を経験。その後、某建設会社のCCC(TSUTAYA)FC部門にSVとして再就職するが、2000年4月、オンライン書店bk1(ビーケーワン)を運営する株式会社ブックワンに児童書・絵本・格闘技サイト編集者として転職。現在埼玉県所沢市在住で、慣れない首都圏生活を送る毎日。 E-mail:babakun@bk1.co.jp |
地下鉄谷町線の谷町六丁目駅を上がって、アーケード商店街「空掘通り」をちょっと入ったところに居酒屋「すかんぽ」はある。 「もつなべ」など朝鮮家庭料理が美味しいこの店のオーナー(と聞いているが?)が、詩人で評論も書かれる金時鐘(キム・シジョン)さんだ。 私と金時鐘さんとの出会いは二十年前にさかのぼる。 今は移転してしまったが、かって天王寺駅前の阿倍野筋大和銀行裏に阿倍野文化ホールがあった。そこで行われた「在日朝鮮文学の夕」という催しで、私は初めて金時鐘さんに出会った。今は亡き金達寿さんの小説全集刊行記念として行われたこの催しに、金時鐘さんはゲスト講演者として来ておられたのだ。 金さんは、兵庫県立湊川高校で朝鮮語を教えるというご自身の体験を踏まえながら、自分が「日本語で詩を書く」ことの意味を静かに語られた。選ばれた言葉の見事なまでの深さがそこにあり、私は圧倒される思いで金さんの話を聞いた。以来私は、金時鐘さんを最も信頼できる物書きのひとりとして尊敬してきた。 職場が中崎町に変わり、谷町線を利用するようになって、私は,時々「すかんぽ」に飲みに行くようになった。その居酒屋で、私は一度だけ金時鐘さんにお目にかかったことがある。 二年前のある夏の日だった。その日、金さんは客席に座り、たぶん在日朝鮮人と思われるひとりの男性と、日本語と朝鮮語とをまじえながらさかんに話をされていた。私はカウンターに一人腰掛け、ビールを飲み、夕食のビビンバを食べながら密かに機会をうかがっていた。私の手元には紙袋がおかれていた。金さんに会ったら署名をお願いするつもりで数冊の本を持ってきていたのだ。 お酒の入った金さんたちの話はなかなか終りそうになかった。一方、私の方はビビンバも既に食べ終わり、コップの水をゆっくり飲みながら「どうしたものだろう」と考えていた。酒の席に突然本を持ちだし、署名をお願いするのは、どう考えてもはばかられた。その日はあきらめるつもりで、店のママさんに御あいそを頼んだ。そして、一言「こうこうのつもりだったけど、またにするよ」と言って帰ろうとした。するとママさんは「私が頼んでみてあげる」と言うと、金さんたちの席に行き、話をしてくれたのである。 金時鐘さんが私の席にやってきた。非礼を詫びながら、私は紙袋から7冊の本を取り出し,金さんの手元に置いた。「おお,君はこんな本まで持っているのか」金さんは驚いたようだった。そして私の名前を聞くと、一冊一冊に署名をしてくれたのだ。嬉しかったのは、署名だけでなく、本の一冊一冊に詩の断片やフレーズを書いてもらえたことだ。 ・『長編詩集 新潟』(構造社 昭和45年8月)には、 「経て、過ぎて巡り合える出会もある 98晩秋 金時鐘」 ・『猪飼野詩集』(東京新聞出版局 昭和53年10月)には、 「ほこりざらしの年輪を見ているだけの板塀がある 金時鐘」 ・『光州詩片』(福武書店 1983年11月)には、 「知っては忘れた赤い残照 金時鐘」 ・『さらされるものとさらすもの』 (解放教育選書8 明治図書 1975年9月)には 、 「愛は生き抜いた記録のなかでこそ光る 金時鐘」 ・『クレメンタインの歌』(文和書房 昭和55年11月)には、 「迷子に出会った思いです 98晩秋 金時鐘」 この本は、本が刷り上がると同時に版元が倒産し、ほとんど市場にでることなく終った本らしく、 金さんは「この本は僕ももっていない」とおっしゃっていた。 ・『「在日」のはざまで』(立風書房 1986年5月)には、 「祖国、この愛憎ふかきもの 金時鐘」 ・『草むらの時 小文集』(海風社 1997年8月)には、 「蟻にたかられて一匹の唖蝉がおり 98晩秋 金時鐘」 というフレーズをボールペンで書いていただいたのである。 お礼を言って席を立つと、金時鐘さんが「ありがとう」と深々と頭を下げられたので、すっかり恐縮してしまったことを思い出す。 それからも「すかんぽ」には何度か飲みに行ったが、金さんにお会いすることはない。 ■プロフィール■ (うかい・まさのり)1951年、福岡県に生まれる。現在、関西学研都市にあるBBCC(新世代通信網実験協議会)で、広報担当者として、季刊誌『BBCC』の編集等に従事。 |
空間を共有しない人に向かって表現をするというのは、私にとって至難の業です。 今まで私がやってきた作業は、目の前にいる人達に向かっての表現活動でした。私は自分の文が(日記の類、手紙の類は別として)顔の見えない人達に向かって、書かれたことのないことに、自分ながらびっくりしています。これは長い間演劇活動をやってきたくせなのかもしれない。――と今更ながらにハタと気づいたわけです(もちろん文章に自信がないということも大いに関係していますが…)。舞台表現はさっきも言いましたとおり、目の前に観客がいて、(もちろん一人一人の顔をはっきり見ながら表現するわけではありませんが、)とにかく目の前に観客がいて、お互いの間の反応が身近かに読みとれるわけです。読み取るといっても、正確に――というわけではなく、舞台と観客との間には大きな誤解が成立している。誤解しながら、一つの空間と時間を分かち合うわけです。 かって、演劇とはどういう条件で成立するものか、という試みをしたことがあります。 (1)演劇には観客一人もしくはそれ以上が必要である。では、それ以上の内容は百人を超えても大丈夫そうである。では200人ではどうか、300人、400人、……800人、1000人、ここらぐらいまでは役者の表現を伝える手立てはありそうだ。では五千人、一万人、三万人ではどうか、ここら辺になるとかなり厳しい状況が生まれてくる。数万人を超えればもう、役者と観客の直接の関わりは成立しないだろう。 (2)では、役者は必要か? 舞台に光があてられている。光が暗くなる。音楽がなる。突然、嵐のようなはげしい光とともに落雷の音、続いて、雨の音、子供のさけび声、遠くからクラクション、犬の声、雨の音がしだいに弱くなり、それと同時に、やさしい光に徐々に変化していく。延々と光と音だけで構成される舞台。わたしたちは実際にやってみたのだが、これはやはり演劇ではなかった。そこにあったのは、何かが起こるかも知れないという期待だけだったから。 結局、演劇の条件とは、役者が一人に観客が一人、そしてその役者と観客が同じ時間空間を共有すること、ということになると思います(もちろん表現しようという意志と観ようという意志が必要です)。 と、長い前置きでしたが、これは私自身が不特定多数の空間を共有しない方に私の書いた文を読んでもらうための私の身の置きどころをはっきりさせておくため、でもあるのです。 そこで、私が今年五月に大阪・千日前の元精華小学校で参加したワークショップ「本を読む」について少しお話したいと思います。 「本を読む」というワークショップでは、総勢19名の参加があり、障害者の仕事をしている人あり、公務員あり、高校の教師ありと、色々な職種の人々、年齢層もさまざまで、「自分の今一番大切にしている本」を持ち寄って、一人ずつが、なぜその本を選んだのか、その本との出会いなどを語り、グループに分かれて、自分の好きな場所を選び、グループの人の前で「本を読む」という流れになっていました。因みに読まれた本で資料の残っている本は次の通りです。 『ハチハニー』『草の花』『私が・棄てた・女』『夢十夜』『ほうすけのひよこ』『ユダとの一夜』『マディソン郡の橋』『断食芸人』『シンデレラ迷宮』『100万回生きたねこ』『サロメ』『人生の贈り物』『チョコレート工場の秘密』『うさぎ屋の秘密』『綿菓子』『生きることを学んだ本』『ゆめのおはなしきいてエなあ』『凶人(きぐるいびと)』『プー横町にたった家』 私は、20代に仕事先で知りあった友人の妻木宗太郎氏の『ユダとの一夜』を読みました。この本は私が、1983年12月17日にスタジオ「しずく」という場所で公演した太宰治原作『駆込み訴へ』を観客である妻木氏が感想として書き残されたものです。この太宰治の『駆込み訴へ』は「キリストとユダ」をテーマにしたものです。私の中でもこの作品は、役者として、一人立ちをさせてくれた作品であったので、妻木氏の『ユダとの一夜』を読んだ時、深い感動をうけました。 以下、妻木氏の文を抜粋します。 ……太宰治の『駈込み訴ヘ』は、たまたま今まで読んだことがなく、駈込み寺の話しか何かのように漠然と考えていましたから、舞台に出て来られたあなたが、ユダであることに気付いた時には、本当に顎きました。なぜ顎いたかと言いますと、ぼくは、たまたま「キリストの影」という長い作品を書いていて、キリストのことを毎日考えていましたから、その暗合に思わずギクっとしました。あなたがユダであることが判ると、舞台も観客も消え、ぼくにとっては芝居が一つの現実に変りました。 あなたは、ぼく一人のためだけに語ってくれているのだ、そんな気がしました。ユダとしてのあなたの言葉に、ぼくはキリストとして反応していました。《ユダよ、それはお前の思いすごしだ》とか、《お前は、私を裏切るのではない。ただただ、聖書の預言が実現されねばならないからなのだ》といった風に、ぼくはユダとしてのあなたに、心の中で呼びかけていました。 あの《一時間半》は、ぼくにとって単なる芝居でも現実でもなく、この世のことでもあの世のことでもなく、夢でもうつつでもない、何とも不思議な一時間半でした。大阪へ来て本当に良かったと思いました。…… 私の中で妻木氏の『ユダとの一夜』は大きな意味を持ちます。それはその次の年、妻木氏が自ら命を絶たれ、私の一番充実した時期を観客として、友人として付き合ってくれた人の死によって、私にとっての観客というもの、芝居というもの、人生というものが、ちょうどこのころから大きく変わっていくことになるからです。生きていれば、酒でも飲みながら、芝居のこと、社会のこと、そのときは理解できなかった事どもが、お互いに語り合えたんだろうなァ−と、ふっとどうしようもなくさみしくなる。この欠落感が四十一にして二人の子を産み、育て、演劇活動をしていた頃とはほど遠い日常生活の中でもおこってきます。 また、『ユダとの一夜』を読むことによって、過去を振り返り演劇を振り返り、自分の中で新しい表現活動に向かって、ゆっくりと思考を重ねることができる。ひょっとして妻木氏の書いた本を読めるのは、私ただ一人ではないか、という気がしています。 ■プロフィール■ (やの・てつたろう)1953年2月18日生まれ。高校の頃から演劇を始める。1978年演劇集団「モクモク」結成。1986年演劇集団「モクモク」解体。1987年GENOM計画で、演劇、舞踏、美術の企画出演。1988年より、一人で野外パフォーマンス。1990年「風美術館」で、大阪の公園をリヤカーに画材を載せて移動。1988年頃より、米原和命主催舞踏公開稽古「つちぐも」「かざぐも」「みずぐも」に時々参加している。只今、緑(ろく)・柚(ゆう)の母親。日常の中で表現のことを考えている。 |
■編集後記■ ★早いもので、本誌発行を思い立ってから早三年目を迎える。刊行一年後には、ペーパーの季刊紙『LaVue』も立ち上げて2誌紙スタイルを確立した。畏るべし中年の底力?、体力の衰えをヒシヒシと感じながらも「前へ〜」とひたすらに匍匐(ほふく)前進の今日この頃。「山本さんは熱いなあと、つくづく思いました」なんてメールをくれたBさん、嬉しがれせないでよ。ここまで来られたのは、執筆者・読者・編集委員の応援があったからに他ならない。「人の心に、熱あれ」。この場を借りて、改めて深謝申し上げます。 ★ということで、二周年記念号は、<本の周辺>をテーマに編集。無店舗書店・リアル書店・ヴァーチャル書店の各現場でご活躍のお三人には、書店人としての矜持や裏話を寄稿していただいた。また読者のお二人からは「著者」への熱い思いを寄せていただいた。読書月間に因んだ企画でもあったが、改めて「読書とは何か」を思い巡らせている。 ★本誌03号掲載の編集委員・加藤正太郎さんの書評エッセイが、社会学者・加藤秀一さんのHPのトップ画面にコメント付きでリンク・紹介されていることを最近知った。ありがたいことです。http://member.nifty.ne.jp/katoshu/ ★彼方を凝視して、三年目のキックオフ!(山本) |