『カルチャー・レヴュー』12号



■ご案内■

合評会の案内

編集部



暑中お見舞い申し上げます。
10月14日(土)の午後に、『La Vue』3号と『カルチャー・レヴュー』の合評会を開催いたしますので、ぜひご参加ください。会場・会費等の詳細は、追ってWebにて告知申し上げますが、仮予約で結構ですので参加の意思表明をメールで編集部までお願いいたします。
仮予約は、こちらまで■E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
★メルマガ版での日時は、間違えておりましたのお詫びして訂正いたします。
因みに、7月に行われた「交流会」は20名ほどの参加で盛会でした。

       ★Web頁更新のお知らせ。トップ頁よりお入りください。
       http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
       ■「ケンキョに書評」(村田毅)
       ■「現役書店人によるショート・ショート・書評」(福嶋聡)
       ■「哲学的腹ぺこ塾」のレジュメ掲載
       ■「習慣POST――詩の在り処」(富哲世/近日開店予定)


       ●●●●『La Vue』3号の予告(00/09/01発行)●●●●

       ◆ダンスに感応する関西の日々〜「観る身体」になること
        小暮宣雄(芸術環境研究・大阪市文化振興懇話会座長)
       ◆セクシュアリティにおける「語り口」の問題」あるいは
       「私の問題をわからせるには、どうしたらいいのでしょう?」

        栗田隆子(大阪大学文学研究科「臨床哲学」博士前期課程在籍)
       ◆『罪なく罰せられて─婚外子の声─』を制作して
        江上諭子(ビデオ工房AKAME)
       ◆殺 佛/富 哲世
       ◆音触りのすすめ/小原まさる
       ◆風土と身体に刻まれた歴史感覚―琉球弧の思想的〈現在〉
        大橋愛由等(図書出版「まろうど社」社主)
       ◆編集委員コラム◆編集後記

       ■広告協賛■アリーフ一葉舎・澪標・まろうど社・解放出版社・編(あむ)書房
        丸善(株)出版事業部さいろ社スペイン料理店「カルメン」
       ■協賛:哲学的腹ぺこ塾
       ■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
            英出版研究所 http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/
       ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
       ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センター等に配布
       ■広告募集中(1枠1万円より。問い合せは、YIJ00302@nifyty.ne.jp
       ■見本紙写真掲載 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html

本紙は、京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・大学生協書籍部・図書館・ 文化センター・映画館等に配布し、配布情報は順次Webに掲載しております。 なお本紙は、読者の方の評価による「投げ銭」及び「木戸銭」というパトロン シップによって、運営をめざすスタイルを模索します。頒価100円は、書店さ んが販売している場合を除いては、読者の方の「投げ銭」の目安です。
また本紙の賛助会員として一口年会費1000円(1号〜4号までの定期購読料+ 送料+投げ銭+特典)を「木戸銭」として申し受けております。本紙を確実に 入手していただくには、この会員になられるのが一番です。また、一緒に愉し んでお手伝いいただける方を募っております。
       ■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
       ■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321




■パフォーマンス■

パフォーマンス・バブル


フルカワトシマサ



    昨年の秋、ヨーロッパに行って来た。ミュンヘンのフェスティバルに招待され、オーストリアのリンツとの二ケ所でパフォーマンスを行った。ボクにとっては、7年ぶりのパフォーマンス公演であった。92年のヨーロッパ・ツアー終了後、94年に古本屋を開業して以来、ほとんどパフォーマンスは行っていない。なぜ、パフォーマンスを行わなかったのだろう、古本屋を開店してからのボクは、その古本屋を素材として、日常生活をパフォーマンス的に生抜いていくことの方が、パフォーマンス作品を作るよりも、ずっと興味があり面白く、夢中に成れたということだろう。(正直なところは、生活に追われパフォーマンス作品を作る余裕がなかっただけなのかもしれないが。)
 少なくともボクは、今までそんなふうに考えてきた。しかし、この稿を書くにあたって、改めてパフォーマンス・アートの事を考えてみると、ボクが、この7年間にパフォーマンス作品を作らなかったのは、一概にこのような個人的な理由だけではない様な気がしてきた。他の大きな理由が、あるように思えてきたのだ。それは、パフォーマンス・アートを取りまく大きな流れのようなものの変化ではなかったかと考える。
 もう少し大袈裟にいってしまえば、パフォーマンスを取りまく社会環境の変革が起ってしまったということである。そして、その変化なり変革は、89年に起ったといわれるバブル崩壊に起因しているのではないかと思える。ボク自身が、評論家や批評家であれば、そのあたりの事を論理的に検証し、社会批判を交えて、独自の芸術論へと展開していくのだが、残念ながらそのような力量は持ち合わせていない。しかし、パフォーマンスに関わってきた一個人としての多少なりの経験と若干の考えを述べることで、少しでもこの稿を進めたいと思う。

 そこで昨年の秋、ミュンヘンのフェスティバルに招待されたいきさつから書いてみる。ある日突然、オーストリアから、手紙が着いた。内容を見ると92年に行ったベルリンでのボクのパフォーマンス公演のビデオを見て、大変に興味を持ったので、今回のフェスティバルに招待したいというキューレターからの出演依頼だった。ボクは、半信半疑で、連絡を取ってみると以外としっかりしたフェスティバルで、条件もいいので招待を受けることにした。しかし、8年前のビデオを見て、よくもまあ、招待してくれたものだと、ボク自身が驚いた。何か人違いではないかと行ってみるまでは不安だったが、公演も無事終了し、待遇もよくギャラもちゃんとくれたので、ラッキーだった。海外では、このようなフェスティバルが、長年続いてきている。
しかし、日本では、この手のフェスティバルなどは、94年頃から年々下火になり、最近では、ほとんど姿が消えてしまったような気がする。スポンサーがいないのだ。ボクの経験から言えば、(過去幾度か、フェスティバルの運営に携わってきたこともあるし、主催をしたこともある。)スポンサーがなくとも運営をしようと思えば出来ないこともない。しかし、それは、一度きりや、多くて2回、3回までで、その後はどうしても続かない。長年続けようと思えば、スポンサーなり、何だかのバックボーンが必要になってくる。このように考えて、この7年間を振り返ってみると、90年前後に、起ちあがった多くのアート・フェスが、2〜3年を経て消失していくのを目の当たりにした。つまり、寿命が尽きていったわけだ。日本では、海外のように企業が、アートに対してお金を出すという事があまりないといわれる。それは、アートの捉え方が大きく違うということだとボクは考える。そして、それはアートの楽しみ方をあまり知らないのが原因だと思う。このことに言及すると長くなるのでやめておくが、つまり、日本では、アートのスポンサーになるという考え方が普及していないということだ。
 当然、スポンサーを必要とするアート・フェスなどは、成長しないし、起ち上げるだけでも至難の業である。しかし、90年前後には、このようなアート・フェスが、日本各地で多く起ち上がった。それに連動するように、アーティスト自身の手によるイヴェント等も多く行われた。なにかアート熱のようなものが、蔓延しているようにも感じられた。企業は、メセナ活動を始め、文化庁は、文化振興基金を設立する。アーティストにとって、より多くの発表の場を与えられた感があり、特にパフォーマンス・アートに関しては、この時期に合わせるように多くの興味深い作品が登場した。このような動きは、なぜ起こったのだろう。それは、つまり、バブル経済で有り余ったお金が、アート・シーンに、流れ込んできたせいではないかとボクは推察する。この頃のボク自身も、各地で行われるフェスティバルに積極的に参加し、文化振興基金をベースに自主公演やアート・フェスを主催した。作品の方も、アート・フェスへの参加で、刺激や影響を受けながら、より密度の濃いものへと成長していく。また、その過程で出会ったアーティストや、ディレクター等の関連で、今回の招待のきっかけとなった92年のヨーロッパ・ツアーにも参加することとなる。この時期を振り返ると、バブル崩壊など、どうでもよく、アート・シーンの活気の中にどっぷりと浸かり、パフォーマンス三昧の日々だつたような気がする。他の興味あるパフォーマンス作品も、より多く輩出され、今から思うと、まるでパフォーマンス・バブルの様相を呈していたかのように、ボクには思えてくる。

 このように書いてくると、バブル崩壊で、不況にあえぐ日本の貧乏アーティストの怨み節や、作品の出来ない言い訳のように聞こえてくるが、(本当は、その通りかも知れないが)実は、ボクの言いたかった事は、そのような事ではない。

 パフォーマンスという芸術表現は、じつは、このようなパフォーマンス・バブルの状況にこそ、その表現に力を持つてくるのである。ひとつひとつの作品は、いくら完成度が高くても、どのようにオーディエンスを感動させようとも、それだけでは、いつかは、何者かに取り込まれてしまうのである。取り込まれてしまえば、その時点で、そのパフォーマンスが持つ特有の力が消えてしまい、パフォーマンスとして成立できなくなる。それ故に、常に新たな表現手段を模索し続ける運命にある。それならばなぜ、パフォーマンス・バブルのような状況が、パフォーマンスに力を与えるのであろうか。それは、おのおののパフォーマンスが、お互いに影響し合い、共振し、常に新たな状況を生み出して行くからなのである。まあ、簡単いえば、オーディエンスにとって、ひとつのパフォーマンスを見るよりは、いくつかのパフォーマンスを続けて見た方が、より面白く興味深いし、またアーティスト同士もより深い影響を与え合うといったところだろうか。その点からいくとアート・フェスティバルなどは、パフォーマンスにとって絶好の表現の場であるわけだ。だから、90〜93年にかけてのアート・フェス乱立状態は、パフォーマンス・アーティストにとっては、願ってもない状況だったのである。つまり、パフォーマンス・バブルこそ、パフォーマンスという芸術表現を展開していくには、どうしても必要な育成土壌なのではないかと、ボクは考えるのである。

 バブルが崩壊して、バブルの残像のようなアート・フェスティバルが、次々とその姿を消していき、パフォーマンスの絶好の育成土壌がなくなった現在、パフォーマンスという芸術表現は、どこに向かって行くのであろう。ボクが、この7年間、パフォーマンスを行わなかった理由は、勿論、それだけではないだろう。しかし、このようなパフォーマンスを取りまく社会環境の変化とも、無関係ではないと考える。もう一度繰り返すが、ボクは、パフォーマンスの展開にとって、パフォーマンス・バブルという状況こそ、どうしても必要ではないかと考える。今一度、バブル経済がおこりアート・フェス乱立状態がくるとしても、海外のようにアートの楽しみ方に、根ざしたアート・フェスティバルが、長年続くとしても、また、今までとは全く違った方法を持つアート・イヴェント(たとえば、ネット上でのフェスティバル等)が出来るとしても、ボクは、それらのすべてを歓迎する。なぜなら、それらのすべてには、パフォーマンス・バブルを起こしえる要素が含まれているからだ。そして、今現在、パフォーマンス・バブルこそが、パフォーマンス・アートにとっても、ボク自身にとっても必要なものかもしれない。

■プロフィール■
1959年、大阪生まれ。大阪芸術大学文芸学科中退。80年代後半より、パフォーマンス活動を始める。90年前後より、その活動を本格化し各地のアートフェスティバルに多数参加、自らもアートフェスティバルをいくつか企画・主催する。92年、パフォーマンス・ヨーロッパ・ツアーに参加後、半年程滞欧、遊学。94年に古書店「クライン文庫」を開店、現在に至る。E-mail:klein@occn.zaq.ne.jp クライン文庫HP http://www.occn.zaq.ne.jp/klein


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■多文化性■

緑の国のインディアン

小原まさる



 仕事の関係で、ここ数年何度もアメリカのワシントン州を訪問する機会があた。ワシントン州はご承知の通り、緑の多い美しい地域で、森林資源が豊かである。レヴィ・ストロースの「仮面の道」の題材ともなったこの地域のインディアンの木の文化に対する関心と、個人的には森林鉄道の歴史に興味があったということから、私にとっては、とても魅力的な地域となった。その中での、あるアメリカ・インディアン(ネイティブ・アメリカンと表記すべきであるとの意見もある)との出会いは私にとって貴重なものであったし、その後の自分自身の考え方に影響を与えるものであった。

 いまから5年ほど前のことだが、文化交流プログラムの学生として、他の学生とともに一人のアメリカン・インディアンの学生が、私の町を訪問した。学生といっても彼は40才に近かったが、とても気さくで明るい性格の持ち主だった。かれは他の学生がいやがる「納豆」を、食事のたびにうまいと言って食べ続け、大いに私たちホストの気持ちを和らげ、人気者になった。彼はみそ汁や日本酒も楽しんだ。彼は教師を目指していた。生活するために入った軍隊をやめて、彼が本当にやりたいことを始めるために大学で学んでいた。
 翌年、ワシントン州の彼の自宅を訪問した。大きな家ではないが、整えらえた室内は快適だった。あちこちにインディアンの文化を感じさせる美しい絵や置物が飾られている以外は、ごく普通のアメリカの家だった。私は奥さんの手料理のおいしいローストビーフをいただいた。奥さんは小学校の先生で、教師をめざす彼にとっては先輩だった。インディアンは家系を大切にし、お嫁に行くときに刺繍による絵でその家系を示した美しい布を作ってもらうことなどを、実物を見せながら彼女は説明してくれた。
 そのころ彼が書き上げた卒業論文のテーマは、西部開拓の象徴ともいえるオレゴン街道について、アメリカ・インディアンの立場から記述することだった。私はすばらしいアイデアだと思った。滞在中に学校のホールを借りて、彼は私達のためにインディアンの踊りの披露をしてくれた。観客は、私たち日本人と友人の運営する乗馬学校に所属する白人の子供たちだった。彼と彼の奥さんが見事なダンスを見せてくれた。
 友情を深めるためのインディアンの踊りを皆で楽しんだ後、彼はその見事な装束のまま、オレゴン・トレイルの話を乗馬学校の子供達に対して始めたが、彼の熱意にもかかわらず子供たちの関心は、彼の話よりその衣装に向いていたようだった。帰り際に「おまえは友達だから」と言って、彼はあのすばらしい羽根飾りの一本を切って私に手渡した。「これはお守りになるんだ」。  数年後またアメリカで、彼に再会した。餃子セットだけがおいしい日本食レストランで、その後の彼の状況を聞いた。彼は大学に残りさらに勉強を続け、インディアンのための小学校の校長先生になった。そのことを聞く私に、彼はもっともっと感激して欲しかったのだろうが、それが彼らにとってどれほど画期的なことであるのかを、私は理解していなかった。とりあえずお祝いの言葉を言ったものの、彼の態度は何かもどかしげなまま、そして私の表情もポカンとしたまま、数秒経過することになってしまった。彼は繰り返した、「校長になるんだよ!」。彼は、彼がこの地域で最初のインディアン出身の校長先生になること、それがすごいことなのだと言っているのだった。そこにいる私は、全く説明のしがいのない、気楽な日本人以外のものではなかった。それでも私は、彼らにとっての現実がそうしたものであること、そしてそれをこの場で直ちに理解して、次の言葉で彼の努力に対して最大の賛辞を表すべきであることを察知した。そして、あらためてビールで乾杯した。
 もっと驚いたのは、インディアンが自身の言語を学校で習うことができるようになったのは、1969年からのことであるという点であった(私はその頃そんな事実も知らなかった)。今でも800近くの異なったインディアンの言語があるという。さらに、彼らの困難は、彼ら自身で、子供たちに教えるための、彼らの近代史を書かなければならないことだ。白人による開拓の歴史は記述されていても、彼ら自身の自身による歴史は空白のままである。彼の卒論は彼にとってその第一歩であった。いまさら歴史を逆転できるわけでもない、しかしまたこの現実に立ち向かうことをやめるわけにもいかない。彼は、これからインディアン自身による歴史やことばを教え始める、そういう立場にいた。だが私は彼の表情の中に彼の自信と希望を感じていた。

 そもそもこの地域の豊かな緑が、トーテム・ポールで知られる木の文化を育んだ。今、オリンピック半島では、森林の保護が叫ばれている。木材会社は植林をし、主に日本への輸出のために、限定されたエリアでの計画的な伐採に勤めている。それでも、伐採現場近くには、伐採に反対する看板が見立つ。オリンピック国立公園を中心にした半島の森林保護運動は相当強力なものだ。しかし、この反対運動は、もともとの住人であるインディアンのものというわけではない。そうではなく、もともとの住人を追い出し、さんざん木を切り倒し、開発を進め、簡単には再生できないほどのの破壊の末に、自らその過ちに気づいた者たちの反省の姿である。誤解を恐れずに言えば、一種の内輪もめである。もちろん内輪もめでもその意義は十分にある。しかし、インディアンの立場からすれば、調子のいい連中だということになるだろう(ただし、インディアンもまた、その権利として認められた漁業権が故に、環境破壊者として批判される場合もある)。
 私は、アメリカの民主主義がこうした実態の上に出来上がった虚構であるとか、思いのほかひどい社会であるとかをここで言いたいのではない。そのように考える前に、こうした現実は、たとえば戦時中の日本によるアジアの国々への政策についてはもちろん、日本人がアイヌの人々にしてきたことや北海道の開発の歴史の中に同じように存在するのではないかと、自らに問いかけてみるべきなのだと思う。アメリカにしろ日本にしろ、若干の時間的な違いはあるにしても植民地化政策は類似した痕跡や傷跡を残している。そしてそれは、どちらもそれほど遠い過去の話ではなく、どちらにおいても問題は現在も継続している。これらのことを認識することの方が重要である。しかも、たとえ過ちに気付いた人がいても、国家の方針の転換はとても遅い。ほとんど消滅寸前とも言われるアイヌ語、それは同化政策の結末であり、もう取り返しがつかないほどだ。もはや歴史は逆もどりしてはくれない、しかし、なんとかしなければならない。その状況は同じである。釧路の自然保護運動等も、破壊者である日本人の今からできる反省の運動であろう。
 少なくとも、私は、私の出会ったアメリカ・インディアンの一人が、自分達自身の言語や歴史を自ら教えることを、今から可能にしようと努力していることに共感するし応援したいと思う。しかしこれはもちろん、彼一人だけの問題ではない。アメリカでは、こうした問題は80年代後半には、歴史家のなかでもかなり明確に指摘されている(私自身、これでは遅すぎると感じた。偉そうなことを言うようだが、それは、アメリカの歴史家の意識がもう少しいい線に達しているはずだろうという、私の頭の中での勝手な思い込みに基づく反応に過ぎなかったと今では思っている)。

 「開拓者やその子孫が、自らの過去について彼ら自身の解釈を述べた本を出版する権利があるように、インディアンは、彼らの伝統にしたがって自らの歴史を書くべきだし、書くことができる。(中略)けれども、そこには、これらのすべての本を、すべての視点に注意を払って読む人たちがいるべきなのである。(Patricia NelsonLimerick)」。

 アメリカの歴史をインディアンの視点で見ることで、そしてそれを受け入れることで、アメリカの文化そのものが豊かになることも期待できるだろう。たとえば、アメリカの民主主義の形成過程では、もともと民主的だったインディアンの社会の影響が大きいとの見解もある。また、前述の森林保護の運動にしても、活動の中心は白人であっても、インディアンの精神がその支えになっていると言えよう(80年代から森林保護運動を積極的に展開したユダヤ系の有名なヒッピーは、ネイティブ・アメリカンの教えを学んでいた)。我々もインディアンから何か学ぶことができるかも知れないし、その価値は大きいかも知れない。
 日本人は外国の評価を気にする民族だという意見もある。しかし、たとえばアイヌの文化の視点から日本文化を見直すという、最近注目されている言わば内側からの作業には、どれほどの人が注意を払うのだろうか。

[参考文献]
The Legacy of Conquest by Patricia Nelson Limerick ,1987
The Final Forest (The battle for the last great trees of Pacific
Northwest)by William Dietrich ,1992
The last Wilderness by Murray Morgan , 1955

  ■プロフィール■
(こはら・まさる)某短大で、コンピュータ・ネットワークのシステム管理を仕事にする傍ら、コンピュータのための(同時に人のための?)音楽の記述方法を思案中。また最近は、「ジンバブエに病院用ベッドを贈る会」等のNGO活動に参加している。




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■情  況■

僕は、若者が右傾化していると感じるんだけど

田中俊英



 もう身も蓋もないタイトルなのだが、僕はこの頃若者がかなり右傾化していると感じている。
 でもよく考えると、ほぼ15年くらい前、当時21才の若者だった僕は『朝日ジャーナル』なんか読んでいて、そこには「若者が右傾化・保守化してきた」なんていう警鐘記事がよくあったのだった。そんなのを読みながら、「そんな単純なわけないないだろう、アホ」と、編集長の筑紫哲也に一人怒っていたから、最近自分自身が感じている若者の右傾化に対する危機感に今ひとつ自信がない。
 つまりは、いつの時代も大人世代は若者の反逆を期待していて(特に自分の若い頃の反逆心にプライドを抱いている僕のような大人たちは)、それに若者たちが応えてくれないと「おれ/わたしの時代はあんなに社会に反逆したのに今の若者はとろい。あかん。アホになった」なんて嘆くのが世の常道っていうか、要するにこれが年をとるということなのではないか、ということだ。
 だから、こんな僕の嘆きを聞かされる若者からすると(僕は仕事で若い人たちとよく接するので)、「このおっさん、何をまた力が入ってるんだろう」みたいな、ほとんどこっちの声が「まったき他者」の声として彼らの身体に届いていないような気もする。いや、実際にそんなふうに言われたのだった。
 これはかなり悲しい。そしてそして、くやしいことだった。

 たぶん、小林よしのりが徐々に国粋主義者に変身してきた頃から僕のこの危機感は始まっている。今思い起こせば、『ゴーマニズム宣言』の1巻と2巻はよかった。特に、部落差別について正直に語る「よしりん」の姿勢には共鳴した。あの漫画も、初期のあの姿勢がヒットの決定的原因だったと思う。
 もちろん僕は「戦争論」は気分が悪くなりそうなので読んでいない(この漫画について語れる人はまた原稿を書いて『カルチャーレヴュー』に送ってください)。また、同書に対する反論めいたものも全然読んでいない。僕の中では、90年代文化人のスケールの小ささを馬鹿にしているところがあって、だってほら、僕はニューアカ世代じゃないですか? 全然意味もわからないのに「構造と力」にほとんど人生を決定された者として、リゾームと脱構築とフェミニズムによって徹底洗脳を受けた者として、90年代論壇はほとんどつまらなかった。といいながら、ほとんど最近の論壇って知らないんだけど。でも、なんとなくこじんまりしたというか、パラダイムを示せなかったことは事実だろう。
 しかし最近、論壇のほうも元気が出てきたようにも感じる。具体的には柄谷行人さんとか高橋哲也さんとかの本(『「倫理21』」や『戦後責任論』とか)を読んで――僕は自分が好きな人には思わず「さん」づけになってしまう――そう思った。浅田彰さんや上野千鶴子さんもなんか最近がんばってるみたいだし。あ、高橋さん以外はみんな80年代文化人か。
 まあそんな論壇の動きなんかもはや僕にはどうでもいい。で、去年できたいやな法律たち(「傍聴法」とか、「日の丸君が代法」とか、アメリカ軍との共同作戦をやるための法律とか――「ガイドライン法」ってほんとにそうなんですか?――、国民台帳法だったか国民背番号制だったか、あのプライバシー管理されるやつ)が僕の危機感の直接の原因となっている。でもごらんの通り、各法律に対しての僕の知識は、朝日新聞をちょこっと読んだ程度なので心許ないし、何か別の左勢力に誘導されている気もしないではないが、まあたぶんこれもどうでもいいでしょう。要は、僕がどこからか「危険さ」を感じ取っていて、その危険さをこうして文章にまで書く気になるほど、危険だと判断したということが重要なのだ。
 そう、上記のごとく80年代相対主義にすっかり洗脳された僕としては、こうして自分の反体制的立場(特に「反戦的」なもの)を明確に言語化することにずっと抵抗があった。でもそんなこと言ってられないんじゃないか、堅っくるしい先輩左翼おやじたちがよく言うように、確かに今は「戦前」や「日清日露前」と状況が似てるんじゃないだろうか? いや、歴史は微妙な差異をもって反復するような気もするので、戦前と似たような経過をたどることはありえないだろう。現実に想定されるのは、どこかの地域紛争(これは北朝鮮とかじゃなくて突拍子もない地域のような感じもする)に、アメリカ軍の後方支援をやらされることだろう。今の自民党のノリをみていると、そんな要請をアメリカからされた場合、確実に呑んでしまうと思う。
 いやいや、戦争はもっと全然違う角度から来るかもしれない。

 この6月沖縄へ旅行し、南部戦跡を時間をかけて見て回ったことも僕にとっては大きかった。戦死者20万人のうち10万人が一般住民、そして当時の沖縄住民のうち4人に1人が死んだ「醜さの極致」とまでいわれた戦争。南部洞窟の暗闇での戦闘、米軍による地下への火炎放射器、日本軍による住民殺害、集団自殺、病者の安楽死など、よくメディアで取り上げられるこれら沖縄戦の悲惨さだが、僕にはこのたび、現地での風景に接して初めてその「声」が届いた。資料館(「平和記念資料館」や「ひめゆりの塔」での展示内容は予想以上に充実しており、ひどく僕は「打たれて」しまった)で流れる生き残り証言者による、ビデオから流れる「声」。そして彼らの表情。遺品。証言集に残された文字。アメリカ軍撮影による、直角になってまで地下へ砲弾を撃つ戦車の映像。 そして、各地に残る洞窟。たぶんその中には今も多くの犠牲者の遺骸があるのだろう。沖縄は島全体が墓だ。歴史としてビデオに残された「声」、風景として今も我々の目の前にある洞窟。これらは僕に一丸となって「他者」を形成して迫ってきた。これらに接して、相対主義に甘んじることがどうしてできるだろうか? 今こそが、「反戦」的態度を表明する決定的時期なのではないだろうか。
 そんなことを思いながら、若い人たちと戦争のことを語ろうとするのだが、まったく張り合いがない。中には、ヒトラーが具体的に何をやったことさえ知らない子もいた! 以前の僕のように、戦争について反対する態度に対して「ダサい」みたいな感じで応酬してくる人もいる。どうしてそういう発想になるのかどうしても僕は実感としてわからないのだが「自分たち世代と過去の戦争は関係ない」と言い切る人もいる。
 これら超紋切り型の、戦争に対する若者の言説をどうしたらぶちやぶることができるんだろう。市民運動家や左翼マスコミ的な言い方では絶対通じない。これだけは確かだ。もちろん僕のこのふざけた文章も。
 若者はこうした紋切り的反応をすることで何かから身を守っているのかもしれない、とも思う(若者というのは本質的に保守的なのだ、というのは暴言かしら?)。そりゃ、大手を振って反戦を語れないことは僕にも何となくわかる気がする。
 だが僕には態度決定する時が訪れてしまった。訪れてしまった以上、彼ら若者を相対的に見ることはやめて思い切って「右傾化している」と断言し、彼らに届く「声」を探していくしかない。

■プロフィール■
(たなか・としひで)1964年生まれ。大学卒業後、1992年頃より、友人と設立した出版社(さいろ社)勤務のかたわら「相談家庭教師」という名称で不登校の子への訪問活動を始める。96年、個人事務所「ドーナツトーク社」を設立。訪問・相談活動の他、講座運営などを行なう。また月刊誌『Kid―「対話する」ことで子どもへの援助が見えてくる』、 Web版「週刊ドーナツトーク」 http://member.nifty.ne.jp/donutstalk/を発行。 E-mail:zan01701@nifty.ne.jp




■現代詩■

ガルシア・ロルカはどこにいるか
――ロルカ祭へのお誘い

富 哲世



 「レーニンはレーニン全集のなかにいる」と言ったのは埴谷雄高だったとか。ブルトン亡きあと、「シュールレアリスムはもはやどこそこにあるというのではない、シュールレアリスムは遍在する」というような意味のことを語ったのはたしか、モーリス・ブランショではなかったでしょうか。1898年スペインはグラナダで生まれ,1936年スペイン内戦の発端であるフランコ派の反革命クーデターのさなか、同地で市民派の同伴者とみなされて銃殺された、詩人ロルカの生涯は、内部ゲバルトから一国社会主義へと到る血塗られたヨーロッパの覇権主義の歴史と、ランボウ的、マニエリスム的な必敗主義的野望の道とに、あらかじめ引き裂かれるようにしてあったということもできるでしょう。 人はすべて歴史ともうひとつの通時的時間との不義の子供であるけれども、おそらくロルカにはその個的な負い目を、歴史へとかざして同置する、いわばタナトスとしての生命力がよく備わっていたといえましょうか。その死への強迫的な傾倒、その死への神話のようなものは、たとえば先に公開された「ロルカ、暗殺の丘」という映画にも、断面として見てとれましょう(もちろんそこに「ロルカ」はいない、としても)。ロルカの詩力は、ゴンゴラ以来のスペインの綺想体の詩法の伝統と、故郷のアンダルシーアの歌舞音曲に秀でた民衆的風土性に因るところ大であるといわれていますが、おそらくロルカという詩人は、自ら耳傾ける内部の「声」をそのまま「歌」のように感取する稀有の才能(自然)をもちあわせていた人だったろうと思います。
 そうしてロルカが虐殺された日を記念して集まる、詩人とか音楽家とか朗読者とかいう、わたくしたち不穏の輩どもも、月のない夜に月の証人を呼び出すように「ロルカはどこにいるか」という問いを裡に秘めながら、この「自分の声に耳傾ける」という行為から、まずこの会を呼び起たせ、ロルカの詩のなかにある「血」と「エロス(大地)」と「死」という命の瞬間と、オリーブ畑でロルカの迎えた最期の瞬間のトキメキを、わたしたちの生の発語に接合しようとするでしょう。
 そのようなことをどこか心の片隅に留め置きながら、日本で最初のスペイン料理専門店という老舗「カルメン」の酒と食事を堪能しつつ、朗読祭をご覧になるのも一興かと思われます。
 以下に概要を記しておきます。今回は小学生詩人をはじめ、韓国(からくに)伝統の詩法での詩作に取り組んでいる詩人の初参加なども予定していて、多彩な顔ぶれがそろおうかと思います。ご来場お待ちいたしております。

     
第3回「ロルカ祭」


 ■日 時:年08月19日(土)午後6時開始(終演午後9時予定)
 ■場 所:スペイン料理店「カルメン」TEL:078-331-2228
      (神戸・三宮、JR・阪急・阪神三宮駅から徒歩6分)
 ■料 金:3500円(チャージ・ディナー込み・税別)
 ■問 合:「カルメン」大橋まで(席数が限られているため予約を入れておく方が無難です)
 ■構 成:第1部ロルカ作品の朗読(大西智子、大橋愛由等、金里博、富哲 世、福田知子ほか)
        第2部詩人による自作詩朗読(磯田ふじ子、上野都、大西隆志、金里博、今野和代、
        西谷民五郎、布村真里、福田知子ほか)
 ■楽 隊:「俄(にわか)」「生活サーカス」(予定)





■編集後記■
★まるで今思いついたばかりの実験を試してみるかのように、壁に立てかけられた鉄柱を、よじ登りはじめる。布切れを鉄柱の裏側にあてがい、その両端を思いきり引っ張り、その摩擦力だけをたよりに体重を持ち上げながら荒い息を吐く。パフォーマンスと呼ばれる表現行為は、時に記憶への入り口を、いくつも開いてくれるものだ。けれどもたとえばこの日のフルカワトシマサに、たとえば無垢な少年の好奇心と意気地ばかりを覗き込んでいるとしたら、いつしか裏取引の静かな目配せが交わされてもいるだろう。いつの間にか先端にからだをさらすパフォーマーたちは、遠く離れた向こう側からこちらを振りかえり、そして巨大なアッカンベーをいつもよこしてくる。フルカワさん、多忙のところ入稿多謝。(加藤)
★今までWeb「シャノワール・カフェ」・ペーパー版『La Vue』共に製作にかかわってまいりましたが、今回より編集委員としても参加することになりました。よろしくお願いします。個人的には作家「山口椿」ファンサイトの運営に力を注いでおり、最近メールマガジンの発行が実現いたしました。興味のある方はぜひ。<http://www5a.biglobe.ne.jp/~maoniao/>よりどうぞ。『カルチャー・レヴュー』におきましては、できるだけ親しみやすい生活・文化などに関する原稿を集めるべく努力したいと思っております。(いのうえ)
★「そもそもは」とか「今時の若者は〜」なんて言い出したら要注意。「若者」という言葉には抵抗感があって、中年になっても未だに距離感がとれない私は「成熟」しないのだろう。さて現代のリベラルな左翼が依拠する典型的な立場である多文化主義が、エスノ(民族)・ナショナリズムに連続(逆接)する様を、大澤真幸が朝日新聞のコラムで指摘していた。「実際今日、どこであれ、排他的なエスノ・ナショナリストや人種主義者がその論拠としているのは、あからさまな偏見ではなく、多文化主義である。(中略)今翻ってみれば、日本のウルトラ・ナショナリズムの哲学的な骨格のひとつとなった、京都学派の「世界史の哲学」は、多文化主義である」(00/07/01)と。差異や多様性の顕揚が、反転してナショナルな固有性や民族の優越性の論拠になりえるという「逆説」なのだが、本誌での小原さんのエッセイは、エスノ・ナショナリズムの排他性を超える視点を持ち得ていると思います。(山本)





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