日頃は本誌をご愛読いただきお礼申し上げます。 この度、読者の皆様と執筆者との交流を目指して、これまでの本誌掲載の論考 ・エッセイへのご批判ご感想を募集いたします。そして可能な限り著者からの 応答も同時掲載する『読者号スペシャル版』を刊行いたしますので、奮ってご 参加いただきたいと思います。締切は毎月の月末、原則メール入稿(2000字以 内)とし漸次不定期刊行する予定です。不明の点は、編集部までお問い合わせ ください。 ■入稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。(編集部) |
琉球弧をめぐる旅を、阪神・淡路大震災から五年連続して行っている。 主な目的は、まろうど社から出版する本の編集の仕事と、「FMわぃわぃ」 という神戸市長田区にあるコミュニティー放送局の「南の風」という番組用に 島唄を録音することである(わたしがディスクジョッキーを務めている)。震災 で生き残ったわたし自身の精神的なカタルシスを得るための旅という意味もあ る。 この小文では、琉球弧におけるコメ作の実体を知ることで、琉球弧から照射 した天皇制について考えていきたい。 まず奄美群島の南部に位置する沖永良部島の農業を紹介することで、考察を 進めていこう。沖永良部島は、鹿児島県の中でも農業が盛んな場所として有名 である。生産者も熱心で、換金作物を作る"目利き"は卓越したものがある。収 入が5000万円ある園芸農家も珍しくない。沖永良部島の農業を有名にしている のは、ユリの生産(花卉園芸)である。1999年がちょうどアメリカへユリ輸出を 始めてから100年目だというのだから、ユリ栽培に永い実績と歴史を誇ってい る。奄美そして沖縄を(思想的な観点からも)考える時、農業を切り離して考 えることは出来ない。琉球弧にとって農業は基幹産業のひとつであるからだ。 農業(第一次産業)の就労人口は年々減少しているとはいえ、21%(奄美群島、 1995年度)と、本土と比べて高率である。 1999年1月、沖永良部島の知名町役場で桑原政夫助役に対して「FMわぃ わぃ」の番組用にインタビューする機会があった。この島は知名町と和泊町で 構成されている。わたしは助役に次の質問をした。あと数年のうちに国は減反 政策をやめる方針であり、その結果、コメを作りたい人には積極的にコメを作 ることのできる環境が整備されるが、知名町の農政はどう対応するのか?…… これに対して、桑名助役の回答からは、米作を増やしていきたいという町の農 政指針は読みとれなかった。沖永良部の殆どの耕作地は畑作地として活用され ているといってよく、桑野助役の「もう畑用にしてしまっているから、いまか ら(基盤整備をし直して)水田にするのは大変」とは正直な意見だし、島の人達 にとっても、国の政治的思惑がからみつつも買い入れ価格が低迷しているコメ を作るより、自己裁量がきいて、かつ換金性の高い作物を作る方が儲かるとい うのが本音であろう。 この減反政策終了後のありかたについて、同じ質問を兵庫県庁に聞いたとこ ろ、国がコメをいくらでも作っていいとしたとしても、農家の高齢化が進んで いるなどの理由で、なかなか水田面積は広がらないだろう、とのこと。ただし 意欲的な農家は、他人の田を借りてまでもコメをつくろうとするだろう、と説 明する。 わたしがこうして沖永良部島と兵庫県の例を挙げて比較したのは、次の疑問 を引き出したいためである。 つまり、なぜ奄美のなかでも意欲的な農家が多いといわれる沖永良部島で、 米作に対する強い執着がみあたらないのか、という疑問である。勿論、沖永良 部の例をもって奄美全体がコメを作る意欲が盛んではないと言い切ることはで きない。隣り島の徳之島では、かつて水田が広がり、琉球弧で唯一田植え歌が 継承されている島である(酒井正子)ので、昔は盛んに水田耕作が行われてい た。また自前の米を自分の耕作地で作りたくても、近世には、薩摩藩による強 制的なキビ植え付けを強要された経緯も忘れてはいけないだろう。 この疑問を発する際に、もうひとつ考えなくてはならない歴史的事実とし て、コメ品種の差異がある。近世の琉球弧で作られていたのは赤米だった。大 坂の米市場で赤米の価格は低かったようだ。そのためか薩摩藩は植民地支配下 においた奄美から、税としてのコメ収奪に熱心ではなく、琉球弧内で消費する よう仕向けていった(弓削政巳)ため、為政者の思惑による水田面積拡大は少な かったようだ。(後に薩摩藩は大坂市場において高値で取引される黒糖を奄美 の特産品と位置づけ、黒糖増産のために、徹底した植民地的収奪を奄美に強要 する) 琉球弧に関する米作については、原田信夫著『歴史の中の米と肉』(平凡社 選書147)が面白い視点を持っているので注目してみたい。同書には沖縄におけ る米作の事情が書かれているので次にまとめてみた。この分析は沖縄と隣接す る奄美・沖永良部島にも近似値の内容を提供するものと思われる。 (1)「『おもろそうし』に含まれている稲穂を讃えたオモロは珍しく、全体と しては稲作や農耕を謡うものが、きわめて少ないことが(外間守善によって= 大橋註)指摘されている」(225頁) (2)「1682年に清から冊封正使としてやってきた汪楫によると「中山は地広く 人稀なり。山多く田少なし。……稲田は殊に少なし。米はただ国君及び諸巨族 のみ常に食するを得、小民は即ち皆、番薯を食す」と報告している」(224 頁)つまり一般人は、サツマイモを主食としていたことが伺える。琉球弧の住 民にとって、つい最近まで、主食はコメではなくイモであったことは忘れては いけないだろう。 (3)「沖縄の隆起珊瑚礁の島々における稲作は、河川がほとんど存在しないた め、天水に頼らざるを得ず、しかも塩害が多い、という地理的悪条件下に置か れていた。すなわち沖縄には水田としての可耕地が極端に少なく、畠地がほと んど(だった)」(226頁) 原田は、こうした分析を通じて、「(沖縄は)水田指向が比較的弱く、米の文 化が沖縄には深く根付かなかった」(227頁)と指摘する。沖縄の高等学校の 副教材である『琉球・沖縄史』(新城俊昭著)にも「沖縄地方は、気候的には亜 熱帯に位置しているので、水稲農耕に適していると思われがちである。しか し、地形や台風による災害を考えた場合、必ずしも環境的に恵まれているとは いうわけではない」(15頁)との記述が見受けられる。 農耕儀礼について言えば、沖縄にも伝統的な農耕儀礼は存在する。ただし 「本土と異なって、稲作儀礼を基調としたものではなく、稲作・畑作両儀礼の 複合的性格が強く、両者は等価値視されることが、民俗学の立場からも指摘さ れている」(242頁)と原田は指摘する。つまりは「日本の場合のような米へ の極端な価値観の集中を、沖縄社会に認めることは困難である」(227頁)と 結論づけるのである。 これに対して、ヤマト(本土)の場合を考えてみよう。ヤマトは、コメが幕 藩体制を支えてきた歴史を持っている。近世初期、各藩は、米本位制の経済体 制に対応するべく、盛んに開墾=新田開発を行った。さらに農民にとっても、 コメを少しでも多く作りたいとの要求は、この国の農業風土の中に深く刻まれ た先験的な文化意識であろうと思われる。そしてこのコメこそ、天皇制を支え る重要なファクターなのである。 ただ、わたしはヤマトの人達が連綿とコメを主食にしてきたという説に組み するものではない。日本人がなべてコメを食べる民族だという幻想を生む素地 ができあがったのは、コメが配給制となった1939年(昭和14)「米穀配給統制 法」が施行された後の事態ではないか、と思っている。コメが配給制になった ことで、全国に広く薄く配給されることとなり、その結果いままで年に何回も コメを口にしなかった漁村、山村にまで、コメが行き届くようになる。これは 戦前の食糧統制という経済的事情が端緒であったにせよ、わたしはこれによっ て天皇制が完成した(=日本国民に天皇制が浸透した)と思っている。つまり コメの生産とその祭祀を統べる天皇という存在が全国民に認知されたのではな いか、との推測である。 この考えは民族派の人達と語っているうちにひらめいたことだ。彼らが神格 化してやまない天皇というのは、アキヒト天皇が望んでいる明治以前の伝統的 な「象徴天皇」の姿ではなく、近代国家の要請で作り上げられた父権性をたっ ぷりと吸収した"父なる全能者"である。この近代=モダニズムの落とし子であ る"父なる天皇"が国民の上に君臨するようになったのは、昭和の戦争が逼迫 し、コメの配給制が施行された時期と符号しているのではないかと推測した い。わたしは民族派のひとたちが依拠する神格化した"天皇"が完成したのは、 NAP(戦時共産制)ならぬ「戦時天皇制」の故ではなかったかと思うのであ る。 わたしが桑原助役に減反規制の撤廃後のコメ作りについて聞いた背景には、 耕作可能な田畑が少しでもあれば、コメをつくりたいというのが農民の「本 能」だろうとのヤマト的発想があったことを明らかにしなくてはならない。こ のことはわたし自身が〈日本人=コメを主食とする〉〈日本=単一文化〉とい う「戦時天皇制」の中で作られた国家幻想の呪縛から充分に解き放たれていな いことを証明しているのである。 琉球弧は、コメをつくりはしたが、主食ではなかった。現在の琉球弧の住民 はコメを「主食」としているが、コメ作については強い執着は見あたらない。 沖永良部島あるいは琉球弧の島々は、「戦時天皇制」と戦後の50年間によって 単一化されてしまったヤマトとは違い、いまだ「戦時天皇制」が徹底される前 の畑作を基本とした農業環境を保持しているといえよう。琉球弧のコメ作の分 析から天皇制が琉球弧に敷衍することの困難さが見えてくる。また琉球弧発の 言説も目が離せない。沖永良部島出身の歴史・民俗学者の先田光演は「奄美に 天皇制はなかった」と唱えている。今後も〈琉球弧・コメ・天皇制〉のテーマ を追っていきたい。 ■プロフィール■ (おおはし・あゆひと)1955年、神戸生まれ。新聞記者、出版社勤務を経て、1990 年、図書出版「まろうど社」を設立。現在、神戸市在住。著作に『阪神大震災と出 版』(共著・日本エディタースクール刊)。同社では定期刊行物として奄美研 究誌『キョラ』を発行。最新自著に、句集『群赤の街』(冨岡出版刊)がある。 「まろうど社」E-mail:maroad@warp.or.jp http://www.warp.or.jp/~maroad/ |
ゴールエリアの手前でボールをもつと、かれは陸上競技の短距離走者のス
タートダッシュのように低い姿勢で、なんのためらいもなく目の前に群がる
ディフェンダーたちにむかってドリブルを開始した。大きく腕を振り、ひじを
高くあげ、鋭角に折り曲げたひざが、一歩、二歩と前へ突き出されるともう
トップスピードにのっている。蹴り足がしっかりと、また長く芝を捉えてい
て、立ち足から頭にかけてのラインを直線的に見せている。その痩せたからだ
は一本のマッチ棒のようにも見え、いまにも倒れそうなほどするどく傾斜して
いる。つぎの瞬間、ディフェンダーから矢継ぎ早に繰り出される足を、やすや
すとパスしていく。この間しかしもっともおどろかされるのは、高速で人のあ
いだをドリブルでスラロームするさい、ディフェンダーにならんだ瞬間にス
ピードが上がることだ…。 私が目にしたのは、1980年の神戸中央競技場での光景であり、かれとは、当 時ワシントン・ディプロマッツの一員として来日した“空飛ぶオランダ人”ヨ ハン・クライフである。 当時のクライフは、60年代後半から70年代にかけて、そのキャリアを開始し たオランダのアヤックスでのヨーロッパチャンピオンズカップ三連覇、世界に 衝撃をあたえた74年の西ドイツでのワールドカップ、スペインに渡ってのバル セロナでの成功と、あらゆる名声につつまれた隆盛期ののち、78年のワールド カップを「家族とすごす時間を何ヶ月もサッカーにとられたくない」との理由 で(軍事政権下の開催国アルゼンチンにたいするボイコットという説もある が)いともあっさりと辞退、アメリカに渡ってたしか2年目くらいだったよう におもう。 高校生だった私は、30歳をとうにすぎ当然衰えたであろうクライフを、それ ゆえいくらか割り引いて見ようとあらかじめ決めていた。しかし、目の前で繰 り広げられたパフォーマンスを見せられたときの興奮は、いきなり地回りのや くざをつぎつぎと切り捨て、面倒くさそうに懐手で立ち去る映画「用心棒」の 三船敏郎を見たときのあの高揚感にも似た圧倒的なものだった。おもにサッ カーの専門雑誌をとおしての情報に頼らざるをえない当時のサッカー少年は、 グラビア写真であってなお躍動感あふれるドリブルが、じっさいに目の前で行わ れているという事実を、しばらくのあいだ受け入れることができなかった。 いまにも前のめりに倒れそうな体勢で、ディフェンダーの横をすり抜ける瞬 間“キュン”とターボエンジンを加速させる。その加速だけをとってみると、 94年アメリカワールドカップの英雄ブラジルのロマーリオにも共通するものが ある。かれのばあい“それ”が発揮されるのはおもにペナルティエリアの中である。ロマーリオは最終ラインのディフェンダーの前でボールを受ける(じっさいそこまではさしたる仕事をしていない)と、ターボスイッチをオンにし、数メートルのドリブルで“グィン”とディフェンダーを振りきり、浅い角度でペナルティエリアを右斜め前方に横断する。あとは丸腰のゴールキーパーをあざ笑うかのようにボールをゴールに流し込むだけである。それにくらべてクライフのそれは、センターサークルのあたりでも頻繁に披露される。スタジアムあるいはテレビで俯瞰していると、フィールドが切り取られるような感覚にとらわれるほどに切れ味があった。かれのドリブルによって、フィールドという空間が鋭利な刃物で切り裂かれ、同時に、かつて〈チンタラしたボールまわし〉であった〈フットボールとよばれていたもの〉が、その意味ごと抉り取られるのである。 クライフが体現したドリブルは〈力強さ〉よりも〈しなやかさ〉を優先する。ここで〈ドリブル〉を〈フットボール〉に置き換えてみると、それはそのまま現代サッカーがおちいっている袋小路から抜け出すひとつの方途のようにもおもえる。速さと強さを追求しつくした(とおもえる)現代サッカーがはたして進歩したといえるのか。この問題には容易に答えることはできない。しかしすでにクライフは、現役時代はみずからのプレーで、選手時代におとらず大きな成功をおさめた監督時代には、そのチームづくり、戦術でその問いに答えているのである。その答えは簡単だ。選手には、肉体的な頑丈さよりも、細くてしなやかなバネ、そしてなにより確かな技術を求める。そしてチームには、勤勉なランニングと過度な高速プレーよりも、基本的な技術をなおざりにしないサッカーを求める。クライフはすぎた“勝利至上主義”(これと商業主義化はいまやスポーツ全体の問題である)がもたらす守備偏重のサッカーを極端にきらう。おなじ1点差でも1対0の試合よりは、5対4の攻め合いを好む。好みという点からいうと、クライフ好みのプレーヤーを私はほかならぬこの日本で知っている。といってもヒデ中田のことではない。みずから“日本人”という枠をはずし、世界的なパースペクティヴでサッカーを解釈した結果、ある意味、現代サッカーのもっとも忠実な具現者となった中田は、クライフの“好み”とはいえない。ゆるぎない戦術の運用に長けるプレーヤーではなく、あくまでもクライフの好みは“ボールプレーヤー”である。いくつもあるゴールまでの道筋から、カーナビゲーションシステムがさししめす“正しい道順”どおりにボールを動かすのではなく、巧みにボールと戯れ、ゲームにスペクタクルをあたえることのできるプレーヤーのことだ。鹿島アントラーズの若きドリブラー本山雄志はまさにそんなプレーヤーだ。99年のワールドユースでも活躍したので、ことによるともうクライフの目にとまっているかもしれない。本山のファンタスティックなドリブルは、準優勝したワールドユースのビデオ等に出ているのでぜひご覧いただきたい。そしてクライフにはぜひとも、監督に復帰したおりに本山を連れていってほしい。スランプにおちいっている愛息ジョルディ(しなやかなドリブルは父親譲りである)よりは将来性はきっとあるとおもうのだが。(つけくわえると、日本では本山や横浜Fマリノスの中村俊輔のような有望な若いプレーヤーにたいして、すぐに中田英寿の成功をひきあいに出して筋力、体力の強化を云々するのは画一的にすぎる傾向であるようにおもわれる) クライフが、そのたぐいまれなドリブルによってサッカーにもたらしたものは技術的な進歩だけにとどまらない。それは当時〈トータルサッカー〉とよばれていたあたらしい概念である。 ゲームにおいて、クライフのドリブルあるいはかれを起点としたパスの交換によって起こる、フィールドのそこかしこで生じた小さな渦は、ひとつのゲームを貫く時間、あるいはフィールドという空間に穴を穿つ。そこには構築的な意志は存在せず、分節化された断片の集積を見いだすのみである。しかし小さな渦はやがて大きな流れに収斂しサッカーというゲームを形作る。それは“理性的”な当時のサッカーにとっては革命的、というよりは理解不可能なしろものだったにちがいない。 簡単にいって、当時のオランダサッカーの戦術は〈全員攻撃、全員守備〉と いういまではあたりまえになっているかんがえ方である。かれらは複数でボー ルを“狩り”、基本的に全員が攻撃参加する方法をとっていた。そこでは、4 −3−3や4−2−4あるはWMといったフィールド上の選手の布置があまり 意味のないものになっていた。トータルサッカーとは中心なきシステムであ る。クライフがアヤックスで、監督のリヌス・ミケルスやチームメートととも につくりだしたあたらしいサッカーの概念。それは、ゴールキーパーあるいは バックスからわたったボールをゲームメーカーであるハーフの真ん中の選手が ウイングにつなぎストライカーが決める、そんなホワイトボードの齣をつかっ た作戦会議のような単純な戦術ではない。センターハーフという盤上のスタ ティックな中心でなく、クライフおよびオランダのサッカーの中心はつねに流 動的であった。 試合を演出するコンダクターとしての能力だけをとってみればクライフは、フィールド全体を周到に見渡し、つねに最善手を打とうとするドゥンガのようなタイプ、あるいはフィールド上の敵味方22人の布置を理詰めで理解し、あくまでサッカーという“制度”を運用しようとしたベッケンバウアーのような理知的なプレーヤーではけっしてない。クライフは、ただひたすらにゲームにスペクタルを求めつづけた。 最近、クライフが実践したトータルサッカーの視線の先に実を結んだかに見えた現代サッカーを称揚しつつ、なぜか〈フットボールははたして進歩(進化)しているのか〉という自問に、答えられなくなっている自分に気づく。バルセロナの会心の勝ち試合がつまらなく感じられることがあるのである。それにたいする細かい考察は稿をあらためるとする。しかし、いま見てきたように、現代の最先端のフットボールに、クライフの標榜するそれを対置してみると、おぼろげながらその茫とした疑問にかたちがあたえられるような気がする。現代のフットボールには、勝利のテクノロジーを追求する機能美は感じられても、それはけっきょくのところ、愚直にゴールに邁進する前近代的な勝利への意志とまったくかわることがないのではないか。ゴールへのまわり道、ゴールへのプロセスそのものにたいする追求、平たくいえばサッカーの原初的な〈おもしろさ〉への情熱が失われているのではないか。 これらの疑問に応えることなしには、安穏と2002年をむかえるわけにはいかな いような気がする。また、そのためにクライフがその手がかりになるような気がして、古びた〈記憶のなかのクライフ〉を懐かしさとともに取り出してみたが、当時の自分のへぼプレーも同時に思い出すにいたりひとり赤面している。 [参考にした本] 細川周平「ヨハン・クライフあるいは斜線の戦略」(『サッカー狂い 時間・ 球体・ゴール』所収、哲学書房、1989) ジョアン・ピ「ヨハン・クライフ 勝者(ガナドール)の魂」(『スポーツ20 世紀 甦る「スポーツの世紀」の記憶 VOL.1』所収、ベースボールマガジン社、1999) ■プロフィール■ (やまぐち・ひでや)1963年京都市生まれ。小学4年のころから球蹴りを嗜む。現在もトレーニングのため腹部に砂袋(脂肪)を詰め込みプレーする。他の関心領域は音楽、映画、食文化。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。出版社勤務。 |
ドラゴンアッシュは少し前まではカルトなロック/ヒップホップバンドだっ
たが、「グレイトフルデイズ」というシングルや「Viva,La Revolution」とい
う3枚目のアルバムがかなり売れた結果、90年代最後の時代を象徴するバンド
となったと言っていいと思う。 彼らのヒットシングルの多くは、ミディアムテンポのラップナンバーで (「グレイトフル〜」をはじめ「陽はまたのぼりくりかえす」「アンダーエイ ジズソング」「レットユアセルフゴー、レットマイセルフゴー」など)、いず れも、はじめ小さく囁くような声でラップし、サビの部分で鼻歌のようなメロ ディを口ずさむ、という構成をとっている。今までのヒップホップがかたくな に守ってきた「メロディーへの反感」などなかったかのように、内から自然に 湧き出たものとして「言葉とメロディーとリズム」の混合形を奏でる。これが 実にかっこいい。また、純粋ヒップホップや、英詞で歌うパンクやハードロッ クもいい。僕の周囲の、30を過ぎた洋楽ファンも結構支持している。 しかし、ドラゴンアッシュの最大の特徴は、そのかっこいいサウンドではな くて、ボーカル降谷建志が書く歌詞にある。最先端のサウンドと反比例するよ うに、その歌詞から導かれる世界は驚くほど「道徳的」なのだ。 たとえば上記代表曲にこんな詞がある。 「父から得た揺るぎない誇り 母がくれた大きないたわり」(「グレイトフル デイズ」) 「父への尊敬母への敬意 あやまちを繰り返さないための努力」(「陽はまた のぼりくりかえす」) どうだろう。そもそもロックやヒップホップは、「社会」とか「大人」とい う概念に反発して育ってきたジャンルで、演歌やフランク・シナトラじゃある まいし、このような「親への敬愛」などという陳腐な道徳性は、唾棄すべき、 というより「それがあってはロックやヒップホップと呼べない」ものだった。 つまり親子愛は、ロック/ヒップホップにとって重要な敵対道徳概念なのだ。 だから、ドラゴンアッシュが売れたことで僕が抱いた驚きは、言葉とメロ ディーとリズムの融合よりも、むしろこの「親への敬愛という道徳性を前面に 出した詞」が若者に受けているという点にあった(その他「共闘すること」「部 屋から飛び出すこと」などのメッセージも受けているが、これは90年代の日本 のポップ・ミュージックに共通するものだからここでは触れない)。 もっとも、ドラゴンアッシュが売れたのはこの歌詞のためだけではないと思 う。サウンドはかっこいいと最初に書いたが、ポップ・ミュージックでもうひ とつ重要なポイントであるルックスやファッション性も、彼らは十分満たして いる。サードアルバムが出た頃、降谷は、ロック雑誌のみならず若者向け ファッション誌(特にストリート系)で頻繁に表紙にとりあげられていた。東 京ボーイ・ミーツ・ヒップホップ文化+60年代ロック+ヨーロッパモードとで も形容したくなるその「見た目のかっこよさ」も、メジャーブレイクには重要 な要素だ。 新鮮だったのは、音とファッションの「かっこよさ」と、歌詞が直接訴えか けてくる古くさい「道徳性」のアンバランスだった。あのルックスと最先端の リズムを背景にして流れてくる言葉が、道徳性の極みである「親への敬愛」。 このミスマッチがリスナーに衝撃的だったのは間違いない(僕はかなり驚い た)。メロディーのキャッチーさや広告戦略の巧みさなどもあるのだろうが、 このふたつのアンバランスのおもしろさ・新鮮さ・奇妙さが、ドラゴンアッ シュ大ブレイクの土台を支える共通感覚ではないか。 さて僕は、ポップ・ミュージックとして社会に受け入れられたものは、現代 を何らかのかたちで象徴するという前提に立つ。ドラゴンアッシュの場合、 ヒットの直接の原因は上に書いたとおりかもしれないが、その歌詞の特徴であ る道徳性(親への敬愛)をもう少し考えることは、90年代の若者や親子関係を 考えるうえで意味があると思う。 僕は、これを単なる「若者の道徳性への回帰」として片づけられない。もち ろん僕も最初に聞いた時、この歌詞に反感を感じたし(ロックファンなら当然 だろう)、たとえロックファンならずとも、なにがしかの保守性をそこに感じ とって嫌悪感を抱いたり苦笑しても不思議ではない。 また、元々は降谷個人の内面から湧き出た言葉であったのに、それが一般性 を持った「親への敬愛」という新しい布につくりかえられ、我々の皮膚の上を またひとつ覆っている(道徳はこうして我々をとりこんでいく)。こうした、 知らぬ間に道徳によってがんじがらめにされるかもしれない畏れから、「ポッ プ・ミュージックという巧妙な意匠をまとった」この道徳性に反発することも わかる。 けれども、僕はこのドラゴンアッシュの道徳性を考えだしてから3カ月がた つのだが(その間、この道徳性に対して否定的原稿も他に書いた)、何かそれ だけですますことに違和感を抱き始めたのだ。 その違和感とは、「親への敬愛」を淡々とラップする降谷建志に対するリス ナーの見方は、「道徳性を訴える教師」として捉えているのではなく、もう少 し憧れめいた、それこそ「敬愛」や「尊敬」といった思考/感情を含む面があ るのではないか、という思いだ。言い換えると、降谷の個人的「親への敬 愛」、その「敬愛」を表現する態度が、多くの人たちから一つの「モデル」と して位置づけられているのでは、という捉え方だ。 実はそう考え始めたきっかけは、僕自身の仕事を通してだった。僕の仕事 は、不登校とかいわゆる「ひきこもり」(社会生活に困難を感じる20才代の青 年たち)の援助活動で、家庭訪問をしたり、グループ・カウンセリング的な会 を主宰したり、親の相談を聞いたりしている。そういった自分自身の体験や、 同業の人たちの話を総合すると、主に「ひきこもり」と言われる人たちの多く が、親に対して過剰なほどの憎しみとその裏返しとしての愛を感じている。親 について語る彼らの決まり文句は「おまえたちの育て方が悪かったから私はこ うなった」というものだ。そして、その言葉と逆行するように、親が死ぬこと 病気になることを極端におそれている。恨んでいるわりにはいなくなったら困 る存在なのだ。もちろん、親がいなくなると自分たちが食べていけないから、 というのが大きな理由だろうが、それだけではない、もっと深くて粘り気のあ る、「究極の人間関係」といってもいいほどの愛憎関係を僕はそこに感じる (憎しみほどに派手なものでなくとも、深くてゆっくり流れるような「静かな 情念」的な関係もある)。 ある人は、こういう「ひきこもり」はアメリカではたぶん存在できずホーム レスになるのでは、と表現していたが、その比較の正誤は別にして、ここに見 られる親子の結びつき(親離れの困難さ)は並大抵のものではない。 しかし、「ひきこもり」に見られる親離れの困難さは、それほど異常なこと だろうか。たしかに、現代社会の価値観においては、20才を過ぎ、全面的に親 に養ってもらう生き方はマイナーな生き方であることに違いない。だが、「親 離れの困難さ」という点で見ると(経済的にも精神的にも)、量に違いはある かもしれないが、質的には他の「普通の若者」とあまり変わらないと僕は思 う。ホームレスにならずに「ひきこもり」を生み出してしまう土壌は、何も 「ひきこもり」家庭のみが持っているものではなく、日本社会全体が持つもの ではないか、ということだ。言い換えると、親離れが困難な社会の典型として 「ひきこもり」は存在し、それを生み出す土壌が日本社会の中に共通感覚とし てある。 また、従来あった親離れは、大人社会の否定から始まり(ここがロックの始 まりだろう)、長い時間をかけてその自分が否定した大人社会に同化していく というかたちで行われた。 しかし、そのスタイルがいつの間にか変形している。大人社会を否定しなが らも同時に大人社会の恩恵を浴びて育っていく、一方で反抗しながら、一方で は「おいしいとこどり」の思春期・青年期を送ることが珍しくなくなった(た とえば、一人暮らしをせず、親と暮らす家の中で自分の部屋を独立化するな ど)。こういうスタイルにおける親離れというものは、親の完全否定というか たちで起こるのではなく、親をある程度一個の別人格として認めながら、静か に巣立っていくというものではないか。その際、親の価値観に沿った巣立ち方 ではなく、思想やファッションや嗜好においても子ども独自の道を示しなが ら、である。 ドラゴンアッシュが何の説明もなく訴えてくる「親への敬愛」を含んだ歌詞 は、元々親離れが困難な土壌で、しかも親離れのスタイル自体が変わってきた なかで現れた言葉ではないだろうか。それを降谷の持つ自信満々の表情、すぐ れたファッションセンス、稚拙だが独自の言葉で作り出す思想などが後押しす る。それらは実はリスナーに向かわずに親に向かっている。リスナーは、こう して「親離れ」していく降谷に、何となく憧れを抱いた結果の大ブレイクだっ たのではないか。(「La Vue」創刊号1999.12.01より転載) ■プロフィール■ (たなか・としひで)1964年生まれ。大学卒業後、1992年頃より、友人と設立 した出版社(さいろ社)勤務のかたわら「相談家庭教師」という名称で不登校 の子への訪問活動を始める。96年、個人事務所「ドーナツトーク社」を設立。 訪問・相談活動の他、講座運営などを行なう。また月刊誌『Kid―「対話す る」ことで子どもへの援助が見えてくる』、 Web版「週刊ドーナツトーク」http://member.nifty.ne.jp/donutstalk/ を発行。E-mail:zan01701@nifty.ne.jp |
■編集後記■
★電車待ちのプラットホームで雨傘を逆さに持ち、ゴルフの素振りに興じるマ
ナーの悪さが話題になったのは、いつ頃のことだったろうか。間延びした雑談
の最中に、よい歳をした大人がシャドーピッチングを始めていたりもする。最
近の僕ならきっと、へんてこなダンスを踊っているのだろう。何故だか態勢を
崩しながら(相手からチャージを受けているつもり)右足のアウトサイドで
ボールを撫で、今度はインサイドで隘路を通るつもりなのだ。山口秀也さんの
クライフ論は、そんな幻の身体をともなってきて、強烈に懐かしい。(加藤) ★大橋さんの論考、コメを統べるカミとしての天皇制の浸透と米穀配給制との 連動は面白い着眼点ですが、その実証性については今後の検証を期待します。 天皇制あるいは近代天皇として政治的権力を獲得したのは明治から1945年の敗戦までの支配形態だと思いますから、それまではローカルな権威であったと言えるでしょう。この天皇の〈権威〉の本質については、吉本隆明の「天皇および天皇制について」での分析が印象深い。★田中さんの論考は、昨年末に創刊したペーパー版 ・姉妹紙『La Vue』からの転載です。因みに『La Vue』2号は、4月末から 5月上旬の発行予定です。(山本) |