『カルチャー・レヴュー』09号



■書 店■

書物受難の時代
福嶋 聡



 書物の受難の時代である。
 その大きな契機が、コンピュータ技術の進歩、インターネットの急速な普及、と言えば、語り尽くされたテーマとの感もあろうが、もしそれが、単に「印刷媒体/電子媒体」という図式のもとでの両項の対立、凌ぎ合いであるとしたら、ぼくの言う「受難」は、少し違う。ぼくには、書店人として、書店現場、出版業界へのコンピュータの導入を強く訴えてきた経緯があり、昨今の業界の情報インフラの整備には、大いに賛同しているからだ。また、個人的にも2年半前にようやくパーソナルコンピュータを購入、多くの人達とE-mailのやり取りをしてきたし、色々なサイトを覗いたりもする。原稿の作成や送付にも重宝している。かといって書物に対する興味や愛着は、減退するどころか、いや増す一方である。だから、ぼくの中では、先に挙げた対立図式は、皮相なものでしかない。
 言いかえれば、ぼくの言う「書物の受難」は、「コンピュータの普及のゆえに」ではなく、「コンピュータの普及にもかかわらず」起こっている事なのだ。書物の立場からは、「あてが外れた」というべきか。コンピュータの導入によって、もっと生き生きと光るはずだった書物が、むしろ傍らに押しやられている状況を言うのだ。
 そもそも出版・書店業界にコンピュータ導入を促がしたのは何か? われわれの業界が書物を販売する事を生業としている以上、あくまでもその合理化の為である。業界全体の売上の頭打ちから下降、返品率の増大と閉塞感が高まる一方、新刊点数だけは増え続ける。それでも、出版社・書店は本が売れないと嘆き、読者は欲しい本が見つからない、と嘆く。そうしたすれ違いの原因は、例えば配本のしかたの問題、販売情報のフィードバック即ちマーケティングの問題、広告や書評と店頭在庫の連動性の無さの問題など色々と数え上げる事が出来るが、一言でいえば、業界全体の情報武装化の遅れであったと言える。  それを踏まえてぼくは、『書店人のしごと』(1991年・三一書房)で書店SA化から業界SIS化への構想を訴えたが、その時差し当たりの範としたのは、「チケットぴあ」型のシステムであった。劇場側はチケットが売れないと嘆き、観客側はチケットが買えないと嘆く。「チケットぴあ」型のシステムを要請した状況が先ほど述べた、書物を巡る供給側と読者側の状況と同型のものだったからである。そして目指すべきは、すべての空席を観客に提供するように、流通している書物を読者に提供する環境の整備だったのである。
 以来、コンピュータの普及は予想以上に加速し、インターネットは多くの人に身近なものとなり、出版・書店業界においても、日本書籍出版協会、多くの出版社、取次、全国チェーン書店が、次々とホームページを立ち上げている。マーケティングに関しても、書店でのPOSデータを電子情報で出版社に提供するのが当たり前の時代になってきた。
 しかしながら、「すべての空席を観客に提供するように、流通している書物を読者に提供する」という目標には、まだまだ程遠い。インターネットで在庫の有無を確認できるといっても、例えばそれは出版社在庫であり、市場に流通している書物を探せる訳ではない。インターネット書店にしても、せいぜいその書店の在庫を確認できるだけで、「そこまで足を運ばなくても、その書店での買い物が出来る」ようになっただけに過ぎないとも言える。現在の業界の構造、企業的発想からは、そこまでが限界だと言われるかもしれない。市場在庫を調べ上げるなど、技術的にも不可能だと言われるかもしれない。「すべての空席を観客に提供するように」などというのは、非現実的な夢想だと一笑に付されるかもしれない。しかし、理念は理念として、常に持ち続けるべきである。今のぼくには、ネットワークの作り方など具体的な方法論も提示できず、早晩解決できる問題では決してない事も充分承知したうえで、そのことは強く訴えたい。この理念は、返品率や販売機会損失の問題、今や業界全体を麻痺させるやもしれぬ病巣の解決へのひょっとしたら唯一の道であり、よしそれが長く険しい道のりであれ、一歩一歩前進するしかないからである。そのために今まず必要なのは、ラディカルな意識改革であろう。書店現場でもっとも間近に読者と接している身なればこそ、そのことを痛感しているのである。
 一方、出版業界・読者双方の志向が、そうした苛立ちに満ちた現状を、一足飛びに跳び越してしまう方向へと向うのも、ある意味で当然かもしれない。書物の編集作業にコンピュータが使われるのが当たり前になった今、作り手が「画面上で完成しているテクストを、何故改めて紙の上に印刷しなければならないのか?」という疑問を持つのも、パーソナルコンピュータがどんどん普及し、インターネットへのアクセスも普通のことになった今、読者が「容易に自分のコンピュータにテクストを取り込める時代になったのに、何故改めて書物を購入して所有しなければならないのか」と考えるのも、実に自然なことだからである。曰く電子本、(やや折衷型ともいえるが)オンデマンド出版、或いはインターネット上の電子テクストそのもの…、それらへの志向性の高まりが、文字通り「書物の受難」なのである。
 結局は「印刷媒体/電子媒体」という対立図式に行き着いたではないか、と言われるかもしれない。ただ、その両項が最初から対立関係であった訳ではないことは、押さえておきたい。出版・書店業界においては、書物(印刷媒体)の製作と販売のために、コンピュータは導入されたのであり、実際コンピュータはそれらの目的に多いに寄与してきた、そして今後もっと寄与する可能性は大きい。ただ、その為には乗り越えるべき障壁も多い。それは、業界全体の構図、システム、否、単なる慣行、更に言えば固定観念、或いは各構成員(企業ならびに個人)のエゴイズムであり、だから、まず必要なのはラディカルな意識改革であり、その行程は長く険しい道のりなのだ。
 繰り返す。その「長く険しい道のり」を回避してはならない。電子媒体の優位を説く人々は、そこに保守性を見て批判するかもしれない。書物を販売することによって収入を得ている書店人の保身を論うかもしれない。それに対して、書物という形態の簡便性、電子データに比べての堅牢さ、様々な属性でもって反撃する方法も少なくはない。しかしながら、そうした技術的な凌ぎ合いを細かく検討する準備も意図も、今のぼくにはない。むしろ、ぼくをかの主張に駆り立てるのは、書物というパッケージ商品の持つ逆説的な開放性の実感である。一冊の書物と読者の出会いの頼りなさ、それゆえの可能性、その出会いを場として演出するこれまた頼りなげな書店空間に、むしろ開放性と可能性を感じるからだ。翻って言えば、いかにも開放的であるかのようなインターネット空間を行き交うテクスト、言説にある種の閉鎖性を感じてしまうからなのだ。その実態を例示したり、その原因を論じる準備も、今のぼくには残念ながら無い。ただ、それが正直な実感であることは、間違いない。
 ラディカルな(根っこからの)視点で現在の出版のありようを捉え、刺激的で具体性に満ちた提言に満ちた松本功氏の『ルネッサンスパブリッシャー宣言』(1999年・ひつじ書房)は、「日曜日の三省堂書店の人混み」と「本の危機」の非対称から論が起こされる。松本氏は、「本の危機」を救うべく、電子媒体との共闘、電子媒体の柔軟な利用を含めて、独自の戦略を展開する。出版の役割、学問や市民社会の現状と未来を広く視野に収めた氏の議論には大いに共感し、是非とも共闘したいと思う。ただ、一人の書店人としては、「日曜日の三省堂書店の人混み」の意味にもこだわっていたい。多くの書き手、出版人の情熱と「人混み」を架橋することが、現時点においてぼくらの第一の仕事だと思うからだ。
 「すべての空席を観客に提供するように、流通している書物を読者に提供する」という理念にこだわり、「長く険しい道のり」を回避してはならないというぼくの主張は、そうした書店現場での実感から生れたものなのだ。

(追記)
 初稿を送信してすぐに、三木清の次のような文章に出会った。
 「すべての書物は、それが出来上がった後には、著者から離れた独立の運命をもって存在するに至る。著者は彼の書の享けるあらゆる運命を愛すべきである。私は私の書物が欲するままに読まれ、思うままに理解されることに満足しよう。」(「パスカルに於ける人間の研究」「序」京都哲学撰書第二巻 燈影舎)
 「著者から離れた独立の運命」は、書店空間をあてどなく彷徨う書物という形態にこそ、相応しい。著者の、編集者の、そして読者その人の意図をも超えた、書店現場における書物と人の出会いに、ぼくは公開性をより強く感じるのかもしれない。書物のあてどなき遍歴、予測不可能な運命、予期せぬ邂逅が、著者その人の新たな自己発見さえ生み出すかもしれない。よそ者がふと目に留めた空席に何気なく腰掛けるような、予期せぬ邂逅が。

■プロフィール■
(ふくしま・あきら)1959年生まれ。京都大学哲学科卒業。82年2月、ジュンク堂書店入社。現在、ジュンク堂書店池袋店副店長。日本出版学会、会員。著書に、『書店人のしごと』『書店人のこころ』(以上、三一書房)




■出 版■

出版社とWeb出版

英 慶一郎



 Web上でコンテンツを販売するため(Web上で本というパッケージとして売るのはなく、デジタルデータで売る)ためのインフラが整備されること、すなわちそれは新しい出版の仕組みが萌芽し、花開ていくことを意味しており、出版に携わる人でなくても少なからず興味を引かれることではないだろうか。

 現行の出版流通システムはどうも臨界点に達しつつあるようだ。本が売れない。売れないということは、一点あたりの販売部数が低下してきたということである。大概の出版社はそのへこみを新刊点数増でカバーしてきた。いままでの半分の部数しか売れないのであれば二点出せばいい、という単純な発想からだ。毎日平均200点以上出る新刊本、これだけ新刊が溢れると、書店は対応できない。よほど売行きが良い本でない限り、長く店頭に置かれないし、入荷したそばから棚にも入らず即返品ということもままある。これじゃ読者の記憶にも残らない。

 この悪しき循環を断ち切るにはどうしたら良いか? 答え簡単、本を出版しなければいいのである。出版物の三年連続のマイナス成長は、大量生産、大量消費による右肩上がりの成長が幻想だということを端的に示した。これからは淘汰の時代に入り、需要と供給のバランスが取られていくことになる。となると出版社は本を売って得ていた売上をほかでカバーしていく必要に迫られる。そう、出版社が21世紀も存続していくためにとるべき道として、Web出版の世界に足を踏み入れていくことになるだろう。だが、それにはクリアすべきいくつかの問題が目前にゴロリと横たわっている。

 まずは価格について考えてみたい。結論からいえばWeb出版が隆盛してもコンテンツは必ずしも安くならない。せいぜい本なみの価格か、それより若干安くなる程度だろう。なぜか? それは出版業の本質と関わりがある。出版業の本質とは、著者に代わって印刷・製本リスクを背負い、本というモノを生産し、取次との交渉で獲得した取引権利を行使して流通させ利潤を得て、それを印税として著者に分配することだと思われるが、現在大どころの出版社は、多くの人員を生産管理・販売業務に投入している。しかし、Web出版の比率が高まってくるにつれ、編集など知的な業務に携わる人間の仕事は減らないものの、生産管理・販売業務は質的変化を起こし劇的に減少する。新聞紙面がコンピュータライズされたとき、熟練した写植工がいなくなったように。印刷会社など取引する会社も大幅に減るため、千代田区や文京区に本社を構える必要性もなくなり、大人数の営業を雇ったり、埼玉にでっかい流通倉庫を持たなくてもよくなるのだ。そうなればこれまでの商業出版の論理は根底から覆える。出版業界を実質的に動かしている、大量生産を身の上とする産業化された大手出版社は、Web出版の時代において自身のリストラに着手せねばならだろう。反面、大手は莫大な量のコンテンツを著者から預かるという形で保有しているのも事実だ。だから巨象たちは本の世界と同様にWebの世界でもプライスリーダーの座から簡単に滑り落ちるわけにはいかないのである。少なくともリストラを終えるまでは。そうであればコンテンツの価格は落ちていかない気がする。松本氏の「投げ銭」の意義を、この辺に感じてしまうのはわたしだけだろうか? 

 価格の問題と同様に重要なのは、コピーと著作権の問題である。「投げ銭」ではこれを友愛の精神とスポンサーシップに基づく評価額で乗りきろうとしているが、それだけでは心もとない気もする。
 インターネット時代に対応したデジタルコンテンツ流通にふさわしい課金方法については「超流通」というひとつの解答が提示されている。関連論文では永井俊哉氏の『マルチメディア社会における著作権のあり方』(http://www.ciaj.or.jp/jmf/jm000525.html)がおもしろい。コンピュータを含めたすべてのデジタル複製機器の小売価格やNTTなどの通信インフラ利用料に著作物利用料を定額で上乗せする。それをいったん著作権管理機関に集めた後、複製された頻度に応じて分配するというシステムだ。コンテンツ毎の直接的な課金ではなく、消費税を連想する薄く広い間接的な課金のため、利用者は利用料をほとんど意識することなく好きなだけコンテンツを享受できるのが最大のポイントである。これが実現できればコピーと著作権の問題は一挙に解決できそうな予感もする。ただこの場合、出版社は主に著作権エージェントのような役割を担うことになるのだろうか…。

   大雑把にはこんなところだろう。
 Web出版の時代には著者と利用者が直接つながるだろうから、出版社の存在意義さえも非常にあやふやなものになる可能性もある。(これについては『ルネッサンスパブリッシャー宣言』松本功著・ひつじ書房、に深い見解があります)だからこそいま、出版というシステムについて、いろいろ考えをめぐらしておく必要があると感じている。
 21世紀になっても本はなくならないだろうし、出版社もあるだろう。しかし、出版社は新しいメディアや情報ツールの出現により、かつてないほどの急激な変化を求められている。Webはとてもオープンな世界であり、気軽である。片や従来の出版は変に伝統的で、非常に閉鎖的な側面を持っている。そんな性質の異なる二つの世界を融和させようというのだから並大抵のことではない。でも、それに関われるのなら、こんな楽しいことはないだろうとも思うのだ。

■プロフィール■
(はなぶさ・けいいちろう)1963年生まれ。出版社勤務。十五年に渡る出版営業の経験から、販売の立場で出版についてあれこれ考えている。英出版研究所主宰。Web上で開催されている「ルネパブ公開読書会」を山本繁樹氏と共同運営中。是非お越し下さい。




■インターネットと表現■

社会改造プログラムとしての「投げ銭」

松本 功



 投げ銭というのは、簡単にいうと、インターネットで発信している個人を大芸人に喩えて、優れたコンテンツの発信を行っている人へ、小銭でいいから投げ銭をすることで、優れたコンテンツを育てようということである。そして実際に、インターネット上で簡単に投げ銭が行えるように、社会的なインフラを作ろうと提唱、問題提起をしている。
 これが大筋だが、わかりにくい点があるらしい。

 「投げ銭」とは、何ですか? と改めて面と向かって初対面の人に聞かれると、こちらは口ごもってしまう。相手は、何らかの具体的な答えを待っているようでもあり、あるいは取材の方の場合、うまいわかりやすい説明を手短かに答えてくれないだろうか期待して、私の答えを待ってくださるのだが、とりあえずの手短かな誰でも理解できる答えというものがあるのか、うまく伝わるだろうか、ということにどうも自信がもてないで不安になる。答えをうまく出せないで、要領を得ないことを口走ってしまう。
 だが、少しのまどろっこしい時間が過ぎた後、だんだん私も調子に乗って、話し始めているのに気が付く。たいていは、最初の不安は杞憂に終わり、それなりの話はできた気になって終わる。
 それはどうしてだろうかといえば、相手の相づちを打つ感じや反応によって、取材している人、聞いている人にとっての投げ銭というものがわかってきて、その人にとっての投げ銭を話し始めることができるようになっていくからだ。
 これが、大勢だとなかなかきつい。というのも、100人いたら、100人それぞれの投げ銭があるような気がするからだ。そもそも、投げ銭には中央集権的な要素がない。言い換えるとリーダーがいて、価値を決めるということはない。自分が自分で気に入ったものに対して、支援しよう、そう思ったときにそれが具体的にできるようにしようというものであって、具体的に何かを支援しようということを前もって決めているものではないからだ。判断は最終的には個々人に委ねられている。こちらでは何も決めない。
 さらに、判断した結果どのくらいの感謝を送るのかも、それぞれの個々人に任せたいと思っている。帽子や空き缶に自分の財布の中から、自分の裁量で、あるいは一掴みといったおおざっぱな、けれども確かな手の感触がある量で、その人の芸を評価する。
 このこと自体、どうなんだろうか? どう思われるだろうか?
 判断も、評価もみる側に委ねられる仕組みというものは、面白いと思うだろうか。それとも、面倒なことに巻き込まれたと思うだろうか。たぶん、両方の感覚があって当然だろう。どれがいいのか、どれがわるいのか、どれがはやっているのか、そうではないのか。そしてそれはどのような価値があり、経済的に評価するとどのくらい払うのが相場なのか? 私は、相場というものを否定してはいないのだけれども、とりあえず、読む側、見る側、聞く側に判断と評価の主導権がある状態を強く肯定したいと思う。

 なぜなら、生活も文化も変わったのに、それを評価する方法が変わらないのはおかしいのではないかと単純に思うからだ。作り手は、出す内容を本当に評価できるのか?
 本というものを考えてみよう。書き手=作家の原稿を出版社の編集者が判断し、制作・営業とも相談し、どのくらい売れるかとコストを予測した上で、発行部数と定価を決めてしまう。しかも定価というものは、ベストセラーの本を基準に決められてしまう。一般書と呼ばれる分野であれば、たいてい価格帯が決まっていて、その値段で世に送り出されることになる。他国に比べて日本は本が安いから、消費者の低価格を求めるという要望が反映していないとは、必ずしも言えないかもしれない。だが、あらかじめ作り手によって、勝手に読者の数や採算点、そして値段が決められてしまう。本当に決めることができるのか? 本当に新しいものを書き手だけで、作り出せるのだろうか。出版人は評価できるのだろうか。
 本も、買い手と書き手そして出版社が相談して決めてもいいではないか。マスプロダクトの場合、それが技術的にコスト的にできなかった。本は、先に印刷されて製本されていなければならず、物理的にものを作る場合、作る数というのは最初から決めて行くしか方法がない。2000部だから、○○円と決めて作るわけだ。もちろん、当てが外れて売れない場合は多いし、売れすぎる場合も稀にはある。
 しかし、もし作る前にそういうことを決めないで作ることができる仕組み、あるいは生活を成り立たせることのできる可能性があれば、違うやり方をしてもいいのではないか。作り手ではなく、読み手が相談しながら価格を決めるやり方ができるのであれば、そうしてもいいのではないか。

 ある人はそんなことをしたら、誰もお金を払わなくなるというだろう。そうかもしれない。けれども読み手は、いいものであれば、それを支援する責任があるのである。というのも、きちんと作り手を育てていく気持ちがなければ、結局は面白いもの、自分にとって意味のあるものが育っていかないからだ。本当に自分の好きなことをやりたいのであるなら、きちんと面白がらせてくれるものを支援していかないと、後でつまらないことになる。(余談だが、日本のミュージックシーンが圧倒的に子供向きなのは、大の大人がゴルフばかりして、自分たちの趣味のあったアーティストにお金を払わなかったせいではないか。ミュージシャンにお金を払うのはガキンチョばかりだから、今の状況があるのではないかと思う。)
 内容を判断して積極的にコミットしていく必要は、コンテンツのデジタル化とインターネットという伝達の革命によって、極度に加速されつつある。今までは、既存の枠の中に、いろいろな楽しみはあった。本にしろ、音楽にしろ、エンターテイメントのもろもろにしろ、デジタルで作られているものではないので、コピーして誰かに手渡すということはなかなか容易にできることではなかった。あるいは言い方を換えるとパッケージというものによって、コンテンツは守られてきていたということができる。
 しかし、デジタルの時代はそうではない。コピーは死ぬほど容易であり、瞬時にできてしまう。おいおい実現するであろう家庭からインターネットに接続する専用線の低価格な定額化が実現すれば、電話代を気にすることもなくなる。デジタル化された様々なデータが行き交うし、コピーはさらに容易になる。コンテンツが直に、しかもコピー可能な状態で届けられるという社会は、今までとは全く違ったものになるだろう。その時に、コンテンツが低レベル化するのか、そうではないのかは、非常に重要な問題だ。

 投げ銭をするということは、多かれ少なかれ、その人が評価をしているということである。多くの人にそんなことが可能なのか、一部の人間しか、そんなことはできないのではないか、という人もいるだろう。それはそうだともいえるが、そうではないともいえるだろう。というのも、多くの人はちゃんと八百屋でいい野菜を買っているではないか。野菜の鮮度や値段を見て、買う八百屋を使い分けているではないか。だから必要に迫られれば、できるようにならないわけがないと思うのだ。
 投げ銭が不可能だという人はぜひとも代案を出して欲しい。ホームページのように誰でも見ることができて、なおかつ、なにがしかの支援の証を受け取ることのできる仕組みというのは、いまのところ、私はこれしかないと思っている。そしてそれが実現することは、すべての人が規模の大小はあるにしろ、何らかのパトロンシップを持つということになり、さらに言うとコンテンツへの関与あるいは責任の一部を持つことになる。それが実現することは、資産家でない、ただの市民が、パトロン性を持つことになる。パトロンになるには、自分の頭で考える判断の力量が必要である。

 となると、これは新しい市民革命、市民が起こす革命でもあるのだが、それ以前に市民を作る革命だと思う。これは社会を改造するプログラムであり、あるいはもしかしたらウイルスかもしれない。唐突だが、社会は近代化の過程で、近代というウイルスに感染してしまった。それが、さまざまな猛毒を吐き出していると思う。私はそのウイルスを解毒するために、投げ銭という新しいウイルスが蔓延する必要があるのではないかと思っている。近代という思想あるいは、資本制度、学校教育、会社社会、サラリーマン主義という病に、我々は自覚することもできないくらい犯されている。その縛りのプログラムを解除すること。
 フランス革命以来、近代の思想は、「自由、平等、友愛」であったはずなのに、友愛を実現するプログラムを作ることができなかった。個人はあくまで個人化するだけだ。あるいはインチキのウルトラナショナリズムやコミュニズムくらいしか、作り出せなかった。もしかしたら、それをまともな意味で、実現するためのプログラムなのかもしれない。「友愛」を忘れた欠陥品の近代というOSをアップグレードするアップデーターであるといえるかもしれない。

 いささか、おおぼらの気配があるかもしれないが、少しでも興味をお持ちになった方は、投げ銭のホームページをご覧ください。(ペーパー版『La Vue(ラ・ヴュー))』創刊号より転載)

■プロフィール■
(まつもと・いさお) 1961年生まれ。国文学の研究書を刊行する桜楓社(現、おうふう)を経て、1990年に言語学の専門出版社の有限会社ひつじ書房を創立、代表となる。1995年に、学術専門出版社として初めて自力でホームページ(http://www.hituzi.co.jp/)を立ち上げる。専門書というマイナーな書籍を刊行している立場から、出版のあり方を捉え直す試みを持続している。1997年には、書評のホームページ(http://www.shohyo.co.jp/)を独自ドメインを取得して運営を開始し、シェアテキストのためのインフラとして「投げ銭システム」を提唱している。著書に、21世紀の出版を構想する『ルネッサンスパブリッシャー宣言』(ひつじ書房・刊)がある。
■(編集部・注)■
「投げ銭システム」のフリーマーケットの実験が、2月中旬頃にはスタートするようです。ぜひとも読者のみなさんも「投げ銭システム」のWebにアクセスして、この実験にご参加ください。




■哲 学■

ヘーゲル『精神現象学』は〈超・娯楽読み物〉である

佐野正晴




 よくあるアンケートに「もし無人島で余生を過ごすことになって、一冊だけ本の携帯が許されるとしたら、あなたは何を持ってゆくか」という質問がある。私の答は、思案するまでもなく決まっている。ヘーゲルの『精神現象学』である。それほど、この本は面白い。
 「面白い」という意味は、学問的興味とか思想的衝撃力とか、そういうことではない。ユーモア読み物が「面白い」とか、推理小説が「面白い」とか、大河ドラマが「面白い」というときの「面白さ」である。『精神現象学』は、娯楽読み物として最高のものなのだ。これは、冗談を言っているのではなく、私は本当にそのように読んできたし、今後もそう読んでゆくはずである。
 『精神現象学』という本は、そこで取り上げている素材について見ると、とてつもなく興味深い話題が満載されているという点で人類史上一、二を争うほどである。ところが、不幸なことに、作者の文才のなさ、文章の下手さ加減という点でも、人類史上一、二を争うほどヒドイ出来なのである。そのため、一、二を争うほどの「難解哲学書」になってしまった。一ページとしてまともに読み通すことができない。これは、実に残念なことだと言わざるをえない。せめて作者にサルトルの半分くらいでも文学的才能があったならば、『精神現象学』は娯楽読み物としてミリオンセラーになったに違いないからである。この不幸な運命を背負った書物の秘められた魅力を何とかして世の人々に伝えたい、というのが私の切なる願いである。
 作者の文章が下手くそで、何を言いたいのか全く伝わってこないからには、読者のほうで努力するしかないことになる。たいていの人は、こんな努力は面倒だからやらない。ただ本を投げ出してしまうだけである。しかし、想像力、空想力を極限まで膨らませて、言葉の真意を必死になって捕捉しようと努めてゆくと、血みどろの苦闘の果てに、要するに言いたいことはこれこれだ…ということがおぼろげに見えてくる。すると、思わずポンと膝を打って感心することになる。ウーム、これは面白い、何と面白い話なのだ…と、しばし感慨に打たれてしまう。あーっ、言えてるなあ、これ…。うん、居るよ、居るよ、こういう人間、うちの職場の誰それがそうだ、全く迷惑なんだよなー…、という具合である。


 ユーモア読み物の古典的名作に、ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』という作品がある。この小説の解説として、作家の井上ひさしが次のようなことを書いていた。この本を速読してしまったら損である、どうにも暇をもてあまして困っているときにのんびりとページを繰って噛み締めて味わうべきである、すると、腹の底から可笑しさがこみあがってきて、もうどうにも我慢できないほどに楽しくなる…云々。
 この批評は、『精神現象学』にズバリ当てはまる。例えば、こんな話が載っている。「精神の動物王国と欺瞞、あるいは事柄そのもの」と題する節である。何とも不可解なタイトルであるが、『精神現象学』ではこの種の奇怪なタイトルがお手のものなのだ。ヘーゲルにいかに文才がないかをよく示している。私なら、こう書くところだ。「俗世間における人々の欺瞞的ふるまい、副題=業績とは何か」。
 世間の人々は、皆がみなこぞって、我こそは世のため人のために身を捧げていると公言している。学者は人類文化に寄与する研究をしていると言い、実業家は企業活動を通じて社会に貢献するという。私の活動は、決して私利私欲によるものではなく、高邁な理想に基づくものだ…と。しかし、これは本心でないに決まっている。その証拠に、「きみの言っていることは、もうすでに誰それがやってしまったことだ」と言われたときに本音が明らかになる。もし、言葉どおりに、いささかの私心もない敬虔な情熱に基づくものであるならば、「それは良かった。私ごとき者がやらなくても、もっと立派な人がすでに手を染めて実現してくれているなら、それにまさる喜びはない」と言うはずである。しかし、こんな奇特な人がいるわけはない。「そんな馬鹿なことがあるか。それは間違いだ」「さては、俺の手柄を盗んだか」「いや、俺のは違う、本物だ」…等々と憤慨するのが普通である。と、いうことは、本当は「世のため人のために身を捧げるかどうか」が問題ではなく、「他ならぬ自分が、それを行うのだ」ということが言いたいだけなのである。
 世の人々は、争ってこういう言動に狂奔している。ハイエナが獲物に群がるように、自分の業績になりそうな材料に群がり寄って奪い合う。こういう風潮を冷ややかに批判している者も、同類であることは免れえない。批判する、というのは自分を偉く見せる手っ取り早い方法である。優れた人よりも、それを批判する人のほうが、もっと優れているように見えるからだ。才覚のある者は、自らの業績を誇ったり、人の業績を批判したりするが、それだけの能のない者はどうするか。誉める、という手がある。「あの人は偉いものだ」と誉めるということは、その偉さが理解できる私もなかなかのものだ、と言っていることになる。しかも、多くの人はやっかみからケチをつけて批判したりなどするが、私は優れた人の偉さを素直に認めることができる人間なのであり、寛大で公正な心の持ち主なのだ、とアピールできるから、有利である。
 世の中とはこんなものだ。しかし、「世の中は汚い」と道徳的に反発するのは、ガキの発想である。そういう反発をする本人も、この汚さから免れていないことに気づいてないだけだ。そして、大事なのは、たとえ汚い動機によるものであったにせよ、業績が業績であることは間違いない、ということである。各人がハイエナのように醜い業績争いを繰り広げた結果、人類に貢献することになるのだから、結構なことなのであると思わなければならない…。
 以上がヘーゲルの説くところである。じっくり読んでゆくと、辛辣な人間観察が次第にジワジワと伝わってきて、実に愉しくなってくる。


 『精神現象学』は、推理小説としても傑作である。冒頭の一行目から、いきなり謎が提出され、それを論理的に解くことが求められるのである。ヘーゲルは「哲学書に序文をつけるべきではない…」と書き出し、以下えんえんとその理由を説明してゆく。『精神現象学』という哲学書の序文が、「哲学書に序文を書くべきでない」という主張から始まるのだから、驚く。そう言いながら序文を書いているとは一体どういうことなのだ。
 二つの解釈がある。ひとつは常識的なもので、ヘーゲルは書いているうちに筆の勢いで思わず反対のことをしてしまったということである。自分の主張を自ら裏切ってしまった、というわけである(長谷川宏の解釈)。この解釈はあまり面白くない。要するにヘーゲルの失敗を指摘しただけのことである。もっとも、これこそ弁証法だ、と考えると多少は興味が出る。思考は、思考自体の力で反対物に転化する。「哲学書に序文を書くべきでない」というテーゼが、ヘーゲルの思考の進展によって「やっぱり序文は書くべきだ」というアンチテーゼに至った、ということだ。
 だが、第二の解釈のほうがはるかに面白く、私はこちらの見解に賛成である。冒頭の一句は、正確には「哲学書に序文をつけるべきではない…ように思える」というものである。「…ように思える」(It seems that…)というのが曲者である。「…ように思える」には、「しかし、本当はそうではない」という含みがある。世間の者たちにはそう思えるかも知れないが、私=ヘーゲルはそうは思わない、というのが真意である(牧野紀之の解釈)。とすると、あとの流れはこうなる。さて、これからしばし、世間のやつらの考えに付き合って、その主張を展開してみよう。そうして、最後に、やっぱり序文が必要だということを示そう。世間で序文が不要だと思われてしまったのは、これまでに世にある序文がダメだったからなのであって、私がこれから模範的な序文を書いてお目にかけよう、という論理の流れである。この解釈は、見事に論理的整合性が取れている。しかし、残念なことにヘーゲルははっきりとそう書いてくれていない。この解釈は行間を読んだ結果なのであって、原文からは、どちらが正しいとも言い難いのである。全くもってヘーゲルの文章のダメなゆえんである。
 私が、後者の解釈のほうに賛成する理由は、こう解釈すると、ヘーゲルの批判方法の特徴が浮き彫りにされるからである。ヘーゲルは、あるものごとを批判しようとするとき、直接けなすことはあまりしない。「誉め殺し」という手をよく使う。「Aは、なるほど素晴らしい、これこれの点でよい。さらに、これこれの点でも妥当だ。もっと言えば、これこれの理由もある。とことん考えれば、これこれの論点からもよい(さすがに世間ではそこまで考えてAをよしとする意見はないようだが、私はこの点も補足すべきだと考える)…等々々」こうやって、賛成意見を出がらしにさせておいて、トドメの一撃を加える。「Aがよいという理由はこれで全てである。ということは、それ以上の良さがないということだ。だから、Aは限界がある」。これこそが、ヘーゲル弁証法と呼ばれるものの極意なのである。序文の要・不要の議論は、まさしくこのやり方である。哲学書には序文が要らない、という理由をえんえんと述べてゆく。そうしておいて、最後のドタン場でひっくり返すのである。
 さて、これまでの話で、断りなしに「弁証法」という言葉を出してしまった。有名な哲学用語なのだが、きちんと(というより、さしあたりの)定義をすべきである。先の文脈で使った意味は、「ものを考えるときに知らず知らずに取ってしまうくせのようなもの」ということである。えっ、教科書や解説書の説明と違うって? いや、こう理解すべきなのだ(現にヘーゲル自身、ちょっと先の方で、「ものを考える際に、これこれのくせがつくとよくない」とか「これこれのくせをつけるべき」という言い方をしている)。
 先の第一の解釈に示された弁証法(くせ)は、「あることをやっきになって主張していると、そのうちに逆のことを言い出してしまう」というものであった。これを難しく言えば、「発展の頂点における対立物への移行」とでもいうことになる。だが、このことは別段大したことではなく、とうてい学問とか理論とか呼べるほどの中身ではない。日常生活でもよく経験することにすぎない。だから、この意味での弁証法は古代ギリシャでも自覚されていた。例えば、プラトンの対話篇『プロタゴラス』にその例が見られる。これは、若き日のソクラテスがソフィストの大家であるプロタゴラスを相手に丁々発止と論戦する、という内容であるが、論争しているうちに、二人の主張が入れ替わってしまうことになるのである。さすがのソクラテスも、というよりソクラテスほどの人だからこそ、論理のダイナミズムに身を委ね、流れにまかせたのである。ともあれ、このように「テーゼ(正)からアンチテーゼ(反)への移行」ということは、ヘーゲル以前から言われていたことなのである。
 しかし、第二の解釈に示された弁証法、すなわち「誉め殺し」論法は、これこそヘーゲルの独自開発したものである。あるものを取り上げておいて、その良さをとことんしゃぶり尽くしてしまい、カスにしてしまってから、ポイと投げ捨てて、乗り越える。このやり方をヘーゲルは「アウフヘーベン(止揚)」と呼び、新しい哲学用語として提唱した。この点が、ヘーゲル弁証法と彼以前の弁証法との大きな違いである。実に、ヘーゲル弁証法の神髄は「誉め殺し」論法にあり、といえるのである。考えてみればよい。この論法を自在に駆使するには、相当な学問的研鑚が必要である。相手の主張の可能性を全て読み切って、さらにその先を考える地平に立つことができて、はじめてこの論法が可能なのである。ひたすら勉強するしか能のなかった鈍才ヘーゲルにして考案しえた必殺技なのである。
 推理小説からだいぶズレてしまったようだ。最初の一行の謎解きだけで、これだけの分量を使ってしまうのだから、この先どれだけかかるか知れたものではない。そこで、一気に『精神現象学』のプロットの全体構成を問題にすることにしたい。
 プロットの巧妙さは、推理小説の命である。これがうまくできていればこそ、読者の興味を引っ張り続けたり、あっと驚かせたりできるのである。この点で、ちょっとやりすぎではないかと思えるほど凝っているのが、夢野久作の『ドグラ・マグラ』という作である。余りの複雑怪奇、精妙な構成に、読者は読み終わったあと、この物語は一体どういう仕組みになっているのか、と頭がクラクラしてしまうほどである。
 『精神現象学』の全体構成も、これといい勝負である。さながら迷宮のごときである。物語の大団円、エピローグにあたるのが「絶対知」という章である。『精神現象学』のストーリーは、この大団円を目指して一直線に進行する。ところが、さあ、いよいよ解決編だ、というところで、劇中劇が挿入され、話が寄り道することになる。この寄り道が曲者で、今まで以上の長さと迫力で展開される。さて、この寄り道もいよいよ終わりに近づき、やっと本筋に戻れそうだ、というところで、更なる寄り道が開始され、これまたこれだけで優に大長編の風格がある…という具合である。寄り道のストーリーの中では以前に語られたエピソードが再び顔を出してくる。この話は前に聞いたはずだ、次にこうなるのだろう、ほら、そうなった…という調子だ。まるで、元のところに戻ってきてしまったようである。すっかり面食らって、惑わされてしまう。
 しかも、叙述の文体がまた、気づかぬうちに変わってゆく。最初は、一人称の独白体で始まったはずである。それが、いつのまにか三人称の客観描写になってしまう。長い独白が終わって、地の文章に移り、作者が顔を出して語りはじめたのか。それとも、独白はまだ続いていて、その中で劇中劇が語られているのか。いかようにも解釈可能である。
 「承認を求める生死を賭けた闘争(主人と奴隷)」という話がある。これがどうも本筋らしいので、それを追いかけてゆくと、いつのまにか立ち消えになってしまう。では終わったのかと思うと、思いがけないところで、続きが顔を出す。作者は、決して忘れてはいないのだ。そうかと思うと、突然に「人相術」「骨相術」なぞという不可解なエピソードが現れる。なんで、こんなところで、こんな話が飛び出すのか。著者は狂っているとしか思えないのだが、ふと冷静になって、距離を置いて眺めると、まさにしかるべきところにしかるべき話題として、差し挟まれていたのだということが分かる。著者は、どこまでも論理的なのである。
 あまりにもすさまじいラビリンスなので、私はマップ作りをすることにした。パソコンのロール・プレイング・ゲームによくある『なんとかダンジョン』というたぐいのゲームを攻略するときの手である。この『精神現象学』のマップ作りは、楽しい苦労であった。まさしく、ミステリーの楽しさそのものなのである(現在、私の手元には完成したマップがある。元素の周期律表のような形のもので、話題の相互関係と話の流れが分かるようにしてある。『精神現象学』をこれから読もうというかたで、ご希望のかたには無料で提供します)。


 『精神現象学』は、大河ドラマである。より正確に言えば、ビルドゥングス・ロマン(教養小説)なのである。ビルドゥングス・ロマン(教養小説)とは、西洋の「私小説」ともいうべきジャンルなのだが、日本でいう「私小説」とは若干趣が異なっている。日本版の「私小説」は、貧乏と病気と女で苦労した体験談に代表されるようなケチ臭いものがほとんどである。しかし、西洋版「私小説」は、もっと気宇壮大なものである。主人公が作者の分身であり、その生涯を物語にするという点は同じなのだが、歴史的激動に巻き込まれ、傷つき悩みながら成長し、ついに安心立命の境地にいたるまでを壮大な大河ドラマとして描き出すものである。典型的な作品として有名なのがゲーテの『ヴィルヘルム・マイステル』であるが、ほかにもロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』、ロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』などいろいろある。サマセット・モームの『人間の絆』もこのジャンルだといえるかも知れない(「教養小説」という訳語は適切でない。「修養小説」とでもしたほうがピンとくる)。
 『精神現象学』は、このビルドゥングス・ロマン(教養小説)である。これは学会で認められた定説である(グルの「定説」ではない。先に述べた「ユーモア読み物」説と「推理小説」説は、私の独自見解なので、高橋グルの「定説」と同類だと言われるかも知れないが、このビルドゥングス・ロマン説は多くの学者が認めている)。この文学形式を念頭に置いてみると、『精神現象学』は理解しやすいのである。
 主人公は作者の分身であり、主人公の振る舞いには作者の体験が影を落としている。では、『精神現象学』の主人公は何という名なのか。何を隠そう、「意識」ないし「精神」である。ヒーローは肉体を持たぬ抽象的な存在であるが、これは哲学書だから致し方ない。
 物語は、主人公の誕生から始まるのが普通だ。生まれたばかりの嬰児にとって、周囲の世界は薄明のごとく混沌としている。そのうち、ものの見分けがつくようになり、事物と事物の関係が意識に上ってくるようになる。見るもの、聞くもの、「なぜ?」「どうして?」と尋ねては大人を困らせる時期になる。ここまでが、『精神現象学』でいうと「感性的確信」の章から「知覚」の章を経て、「悟性(科学的な認識力)」の章へと至るところである。
 次にやってくるのが、第一次反抗期、すなわち自我の確立である。「自己確信の真理」という章がそれである。人は、他者の内に自分の分身を見出し、その分身を見ることで、自らの自我を自覚する。精神分析学者のジャック・ラカン言うところの「鏡像段階」である(ちなみに、ラカンの「鏡像段階」論は、『精神現象学』のこの場所の叙述をヒントにしている)。ここまでのところは、ドラマ性という点から見ると、あまり劇的ではなく、いささか退屈である。だが、思春期になってくると、俄然、ドラマチックになる。作者ヘーゲルの生身の体験がもろににじみ出てくるのだ。
 思春期のテーマ、関心事といえば、何と言っても、セックスと革命運動である。まず、セックスからいこう。「快楽(けらく)と必然性(さだめ)」と題する節がある。ここの叙述は、ヘーゲル自身の性経験が下敷きになっているのだ。
 カントは生涯独身であったが、ヘーゲルも結婚が遅かった。哲学者は、なかなか結婚できないという事情が当時(も今も?)あったのである。若きヘーゲルは、長い独身時代を性欲に燃えて、悶々として過ごしていたが、あるとき、ついに下宿先の大家のおばさん(だったかと思う)と肉体関係を持ってしまうのである。その結果、相手の女性は妊娠してしまい、ヘーゲルは困って、オロオロしてしまうことになる。この体験を総括して書いたのが「快楽(けらく)と必然性(さだめ)」である。ヘーゲルは、体験をこう総括する。若い者は、性欲にかられて、後先考えずにセックスにおぼれてしまう。しかし、妊娠という事実にぶつかったとき、ハタと現実に直面することになる。そして考える。「もう、オレも父親になったのだ。いつまでもチャラチャラ遊んでいたり、無軌道な暮らしを続けるわけにはいかない。社会人として、責任ある生き方をしなければならない歳になったのだ…」と感慨にとらわれる。かくして、人は大人になるのである、というわけだ。ちなみに、ヘーゲルは、きちんと責任を取って、後に結婚してから、この私生児を引き取って、ちゃんと育てたそうである。さすがにヘーゲルはエライ。
 それでは『精神現象学』中の唯一ともいえる、セックス描写のさわりを、ちょっと原文で見てみよう。
「自己意識は自分に生命をとるのであるが、これは熟した果実がもぎ取られるようなものである。熟した果実は取られるのであると同時にもぎ取る手に自分でも迎えにくるものである…」(金子武蔵・訳)何やら、艶めかしい記述であるが、さて、その先はどうか。「自己意識は対象的にあるものを全面的に絶滅することに向って行くのではなく、ただ対象的にあるものの他的存在の形式の否定に、言いかえると、実在性を欠いた外観であるところの自立性の形式の否定に向って行くだけである…」(同)いい加減にしろよ、ヘーゲル! お前はビョーキだ、と言いたくなる。
 さて、セックスのつぎは、革命運動である。「心胸(むね)の法則(のり)と自負の錯乱」という節は、過激派組織の行き着く先を記している。若者は、初め、周囲の社会秩序が不正な原理に則るものであると感得し、それに対して自らの信奉する正義の原理を対置して、闘いを開始する。しかし、若者の闘いに対して、世間の側は「無茶をするな。ルールを守れ」と応答する。こういうお説教に対しては、反体制運動に身を投じている若者としては、こう反発するだろう。「そのルールなるものは、既成の秩序にとって都合のよいルールに他ならない。そんなものを守らねばならぬいわれはない。われわれは正義のために闘っているのだ。必要とあれば、ルールは大胆に破るべきである」と。かくして、「革命のためなら、火付け・強盗、何でもやる」というスローガンが打ち立てられる(昔、そういうスローガンを掲げていた「マルクス主義ナントカ同盟」という組織があったのを覚えている)。
 こういう彼らの反体制運動は、一般庶民からすれば迷惑以外の何物でもない。彼らの正義なるものは、彼らだけが勝手に信奉しているものである。関係のない者には一向に理解できない。だから、勝手な意志を一方的に押し付けてくるという点で、彼らが批判する専制的な政府の悪政と同様であり、また、ごくありきたりの犯罪者の所業と比べても、どこも変わらない。「革命のための火付け・強盗」であろうと、ただの火付け・強盗であろうと同じことなのである。かくして、若者の急進的な革命運動は、いつしかならず者の行為に変質してしまうことになるのである。
 以上は行動派の陥りがちな罠であるが、それでは書斎派のほうはどうだろうか。それを語るのが、「徳の騎士と世路」と題する節である。この汚さに満ちた世の中に対して、道徳をもって立ち向かうという道を取る若者もいる。「お父さん、そんな悪いことをしていいのですか。ボクは学校でこう習いましたよ。本を読むと、こう書いてありますよ」と知識を振り回して大人を批判するのは、若者の特権だ。しかし、こんな青二才の道徳的批判でどうにかなるほど世の中は甘くない。こういう社会批判を行う者は、ドン・キホーテのようなものである。悪戦苦闘の果てに、結局は、汚い世間の前に屈服してしまわざるをえないのである。
 だが、敗北して、挫折に打ちひしがれたとき、ふと気づくことになる。汚いと見えた世の中も、それなりにうまく行っているではないか、自分は大局を見ないで批判していただけなのだ、世の中は清濁併せ呑む度量が肝心なのだ…と。本稿の冒頭で紹介した「精神の動物王国…」の話を思い出してみればよい。汚い動機、汚い手段を通じて、確実に良いことが貫かれてゆくのが、この社会なのである。こういう認識に至ったとき、人は青春が終わり、社会人になったことを悟るのである。
 こうして若者は、セックスと急進的革命運動と道徳的潔癖症という青春期のさまざまな体験を経て、成熟にいたることになる。ここで、物語を終わらせてもよいところだが、作者ヘーゲルは、主人公に更なる激動の運命を用意する。それは、すでに述べた革命運動の挫折の二つのパターンを乗り越えて、真の革命が姿を現すということである。
 行動派が挫折してしまったのは、彼らが大衆から遊離した一揆的行動に突っ走る「小ブル急進主義者」(死語)だったからだ。書斎派の挫折は、白樺派的な理想主義による社会批判の限界を示している。レーニンならきっと「テロリストと合法主義者はよく似ている。彼らはともに、歴史の必然性を理解することをしない」と言うことだろう(このあたりから死語や古い表現が頻出することになりますが、ご容赦ください。若い読者のかたは、二、三十年前の日本の歴史を知るつもりで読んでください)。
 革命的思想が大衆に浸透し、その心をつかむと、巨大な力となる。すなわちフランス革命の勃発である。ヘーゲルが同時代の出来事として見聞してきた、革命の素晴らしさと恐ろしさが驚くべき迫力で展開されるのが、「絶対自由とテロル」と題する節である。そこにおいてヘーゲルは、恐るべき論理を展開している。革命の理想は、不可避的に血なまぐさい相互殺戮と大量処刑をもたらす、というのである。ロシア革命後のスターリン政治体制の成立、カンボジアにおけるポル・ポト派の所業、わが国の連合赤軍事件や内ゲバ殺人合戦を、まるで予言しているかのようなのである。
 ヘーゲルの叙述が驚異的なのは、たんに事件を外見的に予見しているのではない点にある。当事者の心の動きを的確に捕捉しているところなのである。革命に立ち上がった者は、まずこう考える、だから、つぎにこう考えることになる、従って、事態は不可避にこうなるのだ…という具合にである。『精神現象学』の原文の迫力には到底及ばないが、ヘーゲルの語る革命のメカニズムを私の言葉に直して、かいつまんで紹介することにしよう。
 革命に決起した大衆は、「絶対自由」という理想を掲げて、既存の秩序の一切合切を吟味にかけ、理想に反する現実、不合理な現実を容赦なく破壊してゆく。そのとき、一切の分業は悪しきものと見なされ、指導者とそれに従う一般大衆という区別さえ否定され、皆で決めて皆で実行するという形態を取る。人間は、まさに個にして全である。ここまでが、革命の素晴らしい光の面である。
 しかし、こうして旧体制が根こそぎ破壊され、もはや外部に敵が見出せなくなったときから、革命の闇の側面が浮上してくる。革命は、その敵を自らの内部に探し求める。そこで「絶対自由」という理念が、普遍性と個別性に分裂し、前者が後者を敵と見なすことになるのである。どういうことか。「絶対自由」の普遍性とは、要するに、「自由ということの最高の形態は、人民の権力の絶対的な確立に他ならない」という理解である。それに対して、「絶対自由」の個別性とは、「自由とは、俺がやりたいことだから、やるということだ。そこに理由なんかいらない」という個人の気まぐれとして理解された自由のことである。また、普遍性とは完璧な理想的な自由のイデアのことであり、個別性とは現に存在する具体的な自由の姿である。この両者が分裂し、普遍性が個別性を敵と見なすようになると、どういうことが起こるか。
 個人がささいな気まぐれを発揮すると、それは普遍性の名において、許し難い敵対行為だと認定されることになる。例えば、ある人が革命の任務中に腹がへってカツ丼が食べたくなり、ついカツ丼を食べてしまったとする。すると、その人は、こう糾弾されてしまう。「重大な革命の任務中にカツ丼を食べたいという自己の欲望を優先させるとは何事か。カツ丼に固執するというお前の行為に、まさしくお前の反革命性が体現されているのだ」と。あるいはまた、ある女性が昔の習慣で、朝お化粧に時間を掛けてしまったとする。すると「化粧などという旧体制の習慣にとらわれるとは、反革命的行為だ」とヤリ玉に上げられる。こうして、ささいな理由で片端からつるし上げにあい、反革命性を総括せよ、と迫られて、死に追いやられることになるのである。
 党派闘争の激化ということも起こる。どんな党派も革命の理想を完璧に体現しているということはあり得ない。どこかしら欠点があるものである。それゆえ、他党派は、これこれの点で革命の理想に背馳している裏切り者だ、と見えてくる。裏切り者とは、すなわち反革命のことである。「反革命分子を血の海に沈めよ」というスローガンが叫ばれる。「反革命の○○派をせん滅せよ」と相互殺戮が始まる。
 こうして革命は、屍の山を築くことになる。しかし、これは決して、革命の理想が変質してしまったから起こったことなのではない。革命の理想がとことん追求された結果として生じたことなのである。それが、ヘーゲルの主張である。
 何ともやりきれない結末である。だが、ヘーゲルは絶望を勧めているのではない。暗く、血なまぐさい過程の中に希望を見るべきなのである。この痛ましい犠牲者の山を経て、われわれは苦い真理を悟ることができた。大きな犠牲であるにしても、それを経てこそ、今日の平安があるのである。そして、革命の良き成果のほうは、確実に現在に根づいているではないか。全ては必要な犠牲であったのだ…。というわけで、ビルドゥングス・ロマンのストーリーはめでたく完結する。


 以上に見てきたごとく、『精神現象学』とは、不倫あり、笑いあり、謎解きあり、革命と粛清の動乱あり…と波瀾万丈の超娯楽大作、一大スペクタクル絵巻なのである。
 さて、私が頼まれたのは、『精神現象学』のエッセンスを解題せよ、ということであったのだが、なんだか見世物小屋の呼び込み口上になってしまった。「六尺の大イタチ」というので入ってみたら、大きな板に血がついているだけじゃないか、という文句が出そうである。もし私の宣伝が実物と違うとすれば、少し強く光を当て過ぎているからだ。何しろ、このお化け屋敷は、照明が暗すぎるのである。そのため、せっかくの凝ったからくり仕掛けが見物人にはほとんど見えないのである。真っ暗で何が何だか分からないうちに終わってしまった、いや、出口に出られずにすぐ引き返すしかなかった、というのでは残念である。そこで、いくつか見所の場面を取り上げてスポットライトで照らして見せたのである(もちろん、見所は他にも沢山ある)。だから、当然のことながら、正確な要約などでは全くない。学問的に正確な要約と解説をしなかった理由は、それなりにある。まず第一に、そういう解説本は、良いものが沢山あるからだ(末尾に参考文献として紹介しておきます)。しかもヘーゲル自身の手になる自著解説の新聞広告も残されている(これはよく出来ていて、『精神現象学』のごく短い解説・紹介としては、これ以上のものは考えられない)。私などが出る幕ではないのである。第二の理由は、学問的な解説にしてしまうと、面白さが消え失せてしまうからである。「目黒のサンマ」の話にあるように、煮たり焼いたりして高級料理にしてしまうと、失われてしまう味わいというものがある。ヘーゲルの著書は、まさにそれなのだ。ここは、ぜひとも自分で読んでいただきたいというのが私の願いだ。
 最後に、私の夢を語ろう。私は、江戸川乱歩の通俗探偵小説が好きである。乱歩の作品には、外国の推理小説を元ネタにして、それをリライトしたというものが多い。元の作品は、推理小説史上に残る傑作だとされているのだが、あまり面白くない退屈な出来のものである。乱歩は、元ネタの小説のトリックとストーリーを借りて、彼流に味付けして世に出した。ところが、乱歩の筆にかかると、俄然に面白くなる。物語の冒頭からいきなり奇怪な事件が起こり、不気味な怪人が跳梁する。そして、あれよあれよと言う間に、一気に最後まで読まされてしまうのだ。乱歩独特の芝居がかった語り口が、ムードを盛り上げる。「ああ、読者諸君よ。この不気味な怪人の行った魔術は人間業とは思えぬものであろう。やがて登場する名探偵がその謎を解き明かすとき、読者諸君はあっけに取られることであろう。いや、それ以上に、怪人の正体こそ、驚くべきものなのだ…」という調子である。これが才能というものだ。
 私は、乱歩が行ったように、ヘーゲルの『精神現象学』をリライトしてみたいと思っている。この読みずらい名作を娯楽読み物にして多くの読者に届けたいのだ。それが、私のライフ・ワークである。

5 参考文献
 まずは、原典から。もっともオーソドックスな翻訳はこれである。
◎『精神の現象学』上・下 金子武蔵・訳 岩波書店
試しにちらっと一ページほど読んでみることをお勧めする。いかに難しい本かということがよく分かる。これを読んだあとだと、ハイデガーの『存在と時間』が実に読みやすく感じる。難しいことが好きな人向け。
 読みやすい翻訳が以下の二つである。いずれも甲乙つけがたいほど、素晴らしい業績だが、一長一短がある。
◎『精神現象学』上巻(のみ、続巻なし) 牧野紀之・訳 鶏鳴出版
翻訳とは、辞書を使って外国語から日本語に単語を置き換えることではなく、原著で著者が言いたいことをきちんとした日本語で表現することだ、という翻訳の原点を知らされる。訳者は、原著の行間を読み抜いて、元にない言葉をふんだんに補って、著者の真意を伝えることに努めている。その上、別冊で詳細な訳註が提供されているので言うことなしである。だが、残念なことに途中で中断している。量にして原著の三分の一弱しか出来ておらず、再開の見込みもない。
◎『精神現象学』長谷川宏・訳 作品社
牧野が中断した仕事を全部やってくれた、という印象である。全体を一気に通読できるということが何より素晴らしい。この訳書の特徴は、訳註というものが一切なく、全て本文だけで表現されていることである。これは、確かにすごい見識ではある。だが、『精神現象学』はどうしても訳註が欲しくなる本なので、残念である。
 というわけで、以上の二つの訳は一長一短である。なお、両者の同じ箇所を比べてみると、二人の訳者の解釈の違いが出ていて、それがまた考える素材を提供してくれている。
 つぎに内容を手っ取り早く知りたい人のための解説書である。以下の二つがよい。
◎金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫
この人の行った原典の翻訳はすさまじいものであったが、この解説のほうはとても分かりやすい。中学の先生のサークルが主催した学習会で話した内容をまとめたものだということで、入門書の決定版だといえる。
◎長谷川宏『へーゲル「精神現象学」入門』講談社選書メチエ
先に揚げた原典翻訳書の付録にすると、ピッタリである。セット販売するか、一冊にまとめるべきである。そうすれば、解説付き翻訳書として『精神現象学』の定番になると思う。
 本文で触れたヘーゲル自身による自著解説の新聞記事は以下の本に収録されている。
◎城塚登『ヘーゲル』講談社学術文庫 p192
『精神現象学』の内容を一ページでまとめるとこうなる。ただし、末尾で第二巻の予告をしているが、この構想は、以後のヘーゲルの思想形成の過程で若干変わっていった。
 独自な解釈、研究書となると山ほどあるので、それを述べるべき場でもない。ただ、一冊だけ独断と偏見で挙げておく。
◎コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』国文社
書名は「入門」であるが、これは、サルトル、メルロー・ポンティ、ラカン、バタイユ、カイヨワ…といったレベルの人たちを生徒にして講義した内容なので、むしろ研究書だといったほうがよいだろう。『精神現象学』をハイデガー風の「現存在」論を根底においたうえでの革命の哲学であると解釈するのが本書のオリジナリティである。
「主人と奴隷の弁証法」という言葉が、この人から広まった。なお、巻末に『精神現象学』原典の目次が収録されており、それがコジェーヴ流の解釈を加えたものになっている。この目次は、本当の意味での入門に役立つ。ヘーゲルの奇怪な表現を現代人の普通の言葉に直すとどうなるかがよく分かる。
◎フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』渡部昇一・訳
コジェーヴのヘーゲル解釈を通俗化して収録しているので、前掲書を読むのが面倒だという人はこれで済ますことができる。ただし、相当に雑ぱくで、私の本稿といい勝負である。ヘーゲルの『精神現象学』をなんとなく知りたいという人向けである。(2000/01/03脱稿)

■プロフィール■
(さの・まさはる)1951年、東京生まれ。サラリーマンをしながら博士課程にて哲学研究(ヘーゲル専攻)。




■編集後記■ ★今回は、出版特集となりました。書店、出版営業、編集、それぞれの現場から21世紀の出版文化を見据えた直言あるいは提言をしていただきました。Web出版における可能性/不可能性を考える一助にしていただければ幸いです。★松本さんの原稿は、昨年12月に創刊した姉妹紙であるオフライン版『La Vue』からの転載です。『La Vue』は本誌との連動を企図して創刊しました。両誌(紙)の発行で、オンラインあるいはオフラインからのアクセスを可能とし、両誌(紙)が共振しながら深化・発展することを目指しております。『La Vue』2号は、3月末頃の発行予定です。★本号より、編集委員に岡崎市の小原まさるさんに参加していただきます。いわば支局の誕生です。今後もネットワークを広げたいと思います。★最後に、今回は<別冊>を発行いたしました。ヘーゲルがご専門の佐野正晴さんに『精神現象学』のエッセンスを、「謎解き娯楽読み物」風に平易に解題していただきました。ヘーゲルに挫折した方には再挑戦の勇気を与えてくれること、間違いなしです(山本)





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