『カルチャー・レヴュー』03号



■セクシュアリティ■

余りの方から割り算されて
『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』を読む
(加藤秀一・著/勁草書房・刊)

加藤 正太郎




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 その考え方は間違っている。何故ならそんなふうに考えても面白くないから だ、と学生の頃はよく言い放っていたものだ。差別は結局は心の問題と多くの 人が言い、聞きかじりのリビドーや集団的無意識が一人歩きしていたし、世間 では血液型や星座による性格分析を知らなかったり、手相を見ることができな ければ、「女の子」と話すきっかけさえつくれないらしかった。

 いつしか「本能」という言葉を毛嫌いし、何でもかんでも社会の方から考え るようにしているつもりだった。人間を生育歴や環境の方から解いていき、ど うしても余るものがあるとすればそれが「本能」というべきものだろう、と。 これをとりあえず自分なりに「割り算主義」と呼んでいたように思う。

 だからジェンダー(社会的に編成された性別)という概念を知ったとき、そ の懐かしい響きをもつ指摘にある種の共感を持っていたはずだけれども、自分 の性的指向に素直に忙しい僕は、この概念に沿って自分なりの思いつきを深め ることもなく過ごしてきたのだと思う(「フェミニズムに無いものねだりをし てはいけない」などと言いつつ)。つまりジェンダーによって「余り」をつき つめるいわば切実な動機が、僕にはなかったのだ。

「性」をめぐる言葉を問い直すことは「誰もが馴染んだ小径を、遅々たる歩み とともに、しかも後ろ向きに測量し直すような作業」に似ていると著者・加藤 秀一は言う。そういった身振りでならこの書物を、「立ちどまりと遡行の(ま たそのための例題の)」社会学として読み、そこに切実な声を聞き取りなが ら、自らの幼い「割り算主義」を振り返ってみることができるかもしれない。


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「すべての動物の雄は、あちこちに精子をばらまき、できるだけ多く自分の遺 伝子を残そうという本能をもっています。一方、雌は、なるべく強くて優れた 遺伝子の子供を産むために、相手の雄を選択します。……もし男が女性と同じ ように、好きか嫌いかを考えて、納得したうえで許し、受け入れるという選択 性の強い性であったら、人類は滅びていたかもしれません。」

 今もなお僕たちは、こういったたぐいの考え方に、「生活と感性の端々にま で絶えず触手を」伸ばされているのだろう。たとえば渡辺淳一の「男というも の」(中央公論社1998年)は、続けて次のように言うのだ。

「以上の関係は精子と卵子のレベルでも顕著に現れていて、……卵子はあくま で超然と一箇所で待っていますが、そこに向かって何億もの精子がものすごい 勢いで泳ぎ、群がっていきます。……つまり、すべての精子には、がむしゃら に卵子に向かい、その中に入りたいという本能が組み込まれているわけで、同 様に卵子には、無数に群がった精子のうちの一つを選択するという本能が組み こまれており、これが性の原点というわけです。……このように、男性の挿入 願望は、いわば雄のDNAに組みこまれた本能的なものといっても過言ではあ りません。」(第六章「なぜ風俗に行くのか」)

 思わず「間違ってる」と口走りたくなるこの数行の文章も、後に見るような 「生を平板化させずにはおかない」言説を生み出すのであれば、「立ちどまり の社会学」を片手に、次のように分析しておくのも意味のないことではないだ ろう。

 つまりこの言説は、「男と女の性行動の違い」を根拠づけるために、(1) 精子と卵子の行動(本能)の違い(性の原点)。(2)精子/卵子の行動=男 /女の行動。(3)男と女の性行動は本能的。という順で展開される論理を装 いつつも、実のところ言説としては同語反復にすぎず、また論理としては(あ るいは作家の心情としても)逆の順を追って構成されたものなのである。なぜ なら論者の証明部分にあたる(2)の等式を成立させているのは、「何億もの (ばらまき)・群がって・がむしゃらに・中に入る(挿入する)」/「一箇所 で(一つを)・待ち・選択する」と表現されることで切り分けられる「二種類 の動き」が存在するということであり、その「違い」は、論者が事前に主張し たところの、社会における男女の行動の(説明すべき)「違い」そのもの(あ るいはそこから導き出されたもの)であるのだから。

 単純化して言えば渡辺は、何かを証明するかのように見せながら、その実、 『精子の一つ「のような」男』『一つの卵子「のような」の女』という「比 喩」を書いているにすぎないのであり(「一箇所」の「箇」あたりが実に「文 学的」と言えるだろう)、したがってさらに「例題の社会学」をお手本に、一 人の女性と多数の男性との性交渉を当然の風習とする社会を想定してみるなら ば、次のように書く作家の姿を思い浮かべることができるだろう。

「多くの男性と性交したいという女性の願望は、本能的なものといっても過言 ではありません。雌は、なるべく強くて優れた遺伝子の子供を産むために、相 手の雄を選択します。この関係は精子と卵子のレベルでも顕著に現れていて、 卵子には何億もの精子を惹きつけるという本能が組み込まれているのです」

 つまり「根拠」の説明に、社会における男女の「違い」(と彼が信じている もの)を持ちこむ作家は、その「文学的」表現をもってすれば、どんな現状で も説明(肯定)できてしまうのだ。


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 こうした事態について加藤は、「性別分割」(生殖機能を条件として人類が 二つの「性別」をもつ)と「性差表象」(男女間の差異と思われているもの) の水準が混同されるとき、「違うものは違うんだ」というトートロジカルな言 説空間が成立し、性差観念と性役割観念が強固に反復される、と述べるだろう (だから「男女の違いは何か」と問うのではなく、「性差とは何か」、より正 確には「「性差とは何か」とは何か」と問わなければならない)。

 たとえば(同語反復的)性役割観念「育児は女の天分だ」について著者の示 す例を簡略化していえば、事実命題「子供を産むのは女である」(性別分割) が「だから」を介して(正当化したい)性役割規範命題「女が育児をするべき だ」に接続され(「男が育児をするべきだ」にも接続可能であるにもかかわら ず)、しかも「だから」の作用の痕跡が抹消されることによって、「女が育児 をするべきなのは、それが女だからだ」というトートロジーが成立しているの である。そしてこのとき、「性差の「表象」という性格が見失われ、端的に事 実視される」のであってみれば、先の接続のみを自然なものとして流通させる 社会的力こそが、ジェンダー概念をもって問われなければならない。


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「そもそも男がなぜ風俗の店に行くのか……それに対する男たちの答えはただ ひとつ、「男だから」としか答えようがないように思います。」とまさに「本 音」を書く渡辺淳一は、さらにこう書きつけるのであった。

「もちろん人間の場合は、さまざまな社会的制約や抑圧によって、必ずしも動 物と同じような行動をとるわけではありませんが、……欲求が高ぶっている男 たちにとっては、放出することが切実な問題なのです。これをもしことさらに 抑えたら、ストーカーや痴漢となり、さらには幼児誘拐のような屈折した行動 に発展しないとも限りません。」

 こういった言説をこそ「どこまでも生を平板化させずにはおかない暴力」と いうのであろう。それにしてもこの人にとっては、「性」に及ぼす社会や環境 の影響は、本能への制約や抑圧でしかないらしく、まるでジェンダーはおろか 「後天的」という概念すらこの世には存在しないかのようである。

 しかしもし、と加藤ならふたたび次のように問うであろう。ジェンダーとい う概念が「社会的に構築される性」という視界を開くことで、既存の「性現 象」を変革可能な社会的産物ととらえることを可能にしたと同時に、対立概念 としての「セックス」を(たとえ余りのごとく小さなものと見つもるにせよ) 社会や歴史の外部に置くことに与し、「本質としての性なるもの」を産み出し ているのだとしたら、と。つまり先の作家も、いわばジェンダー概念からの恩 恵に(それとは知らずに)浴しているのであり、だからこそ、「動物的な性の 噴出」が「社会的制約」を破壊するという筋書きの物語を、書きつづけること ができるのかもしれないのだ。

 したがってジェンダー概念は、次のようにとらえ返されなければならないだ ろう。すなわち、「ある事柄をセックスとして名指す、医学、解剖学、生理 学、遺伝子学等々もまた、徹頭徹尾人間によって、社会と歴史の内部で行われ る知の営み」であるとするならば、セックスとジェンダーは「まるごと社会的 ・歴史的に構築される」というべきであり、「「性別」はセックスとジェン ダーとから成るに先だって、つねに先ず、<ジェンダー>と書かれねばならな い」。


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 こうして拡張された<ジェンダー>は、「本質としての性なるもの」が既存 の価値観念を反復させるとき、その見慣れた風景に、亀裂を走らせる力を持つ であろう。しかし、この書物の真価は、<ジェンダー>の貫徹されるさらにそ の向こう側(あるいはこちら側)においてこそ、問われている。

 なぜなら一切を社会的産物ととらえる批判者(厳密な構築主義)には、いか にその立場を確保しうるのかという難問(批判者自身もその批判すべき社会に よって構築されているはずなのだから)が立ちはだかるのであり(たとえば 「ミスコン」批判は、既存の「美」によっては何ら汚染されていない無垢な主 体のみが、その資格をもつのか)、しかも本質主義(女性に共有される「本 質」が社会に先立つとする)を断罪する振る舞いにおいて構築主義は、「非抑 圧者が抵抗の礎として掴み取る「アイデンティティ」」さえ、容易に転覆でき る程度の「本質」に回収してしまいかねないのだから(「なぜ」同性愛者に なったのかと問いつめたりするときに、人は単純な構築主義者として振る舞っ ているのだろう)。

 加藤は言う。実際に差別の力線に絡めとられた構築主義は、たとえば同性愛 者の「性的アイデンティティーを可変的なものとして矯正する」道さえ拓いた のであり、またたとえば「女=母」という規範の強化をおそれるあまり、踏み にじられたひとりの母親の声を聞き逃してきたのだと(「産みの母親の気持ち を尊重しなければ」などと一言口にしようものなら「女を母親役割に縛り付け るのか」と反発を受けてしまう)。

 著者がみずからを賭けなければならないのは、本質主義と構築主義のいずれ かを一方的に断罪するような思考法、再来する二分法の捏造からの脱却であ り、したがってその論考は、ひとりの女であることと女性の一人であること、 私そのものであると同時に私の所有物である身体、名づけあるいは名づけられ るということ、といった問題を、つねに「それが初めてであるかのように」め ぐっていかざるを得ないだろう。

 なぜなら著者の言う「<批判>原理」としてのジェンダー概念は、「風景に 亀裂を生じさせる」楔としていわば不断に選び直されるのであり、<批判>と は、「「それなしには私たちが一瞬一瞬生きていくことができないもの」にど こまでも巻き込まれながら、そのただ中で、その危険性を認識し絶えず問い直 していくような態度としての、<批判>」であるのだから。

「賭けるべき<未来>」へと<ジェンダー>を格闘させようとするこの一冊の 社会学は、次のような声となって、稚拙な「割り算主義」をも少しばかりは更 新してくれるのかもしれない。つまり「余り」とは、社会からの割り算の果て に得られるようなものではなく、もちろん最初からあるものでもなく、また演 算者こそが割り算されるのだとしたら、それこそが「間違っている」という直 観の「根拠」であるのかもしれないのだと。

■(かとうしょうたろう) 1960年頃生れ。高校教員。いろんなことにいっとき没入するが、すぐに忘 れる。「性の研究会」参加(会報「ばらばら」発行)。とある舞踊家を熱く支 持。仲間たちで編集した「教育の『靖国』……教育史の空白・教育塔」(樹花 舎)が発売中。新しい人と出会うたびにいつも勉強し直したいとは思ってい る。
■(編集部・注)加藤秀一氏の最新のホームページは下記の通りです。
http://member.nifty.ne.jp/katoshu/
なお、哲学者・永井均さんによる本書の書評が下記に掲載されていますので、 併せてお読みください。
http://www.yomiuri.co.jp/bookstand/old/98_1115iii5.htm



■セクシュアリティ■

名付けられなかったもの、
なきものとされたもの、の肯定から


おくのなおこ



 ある日、バスに乗って『おまんこ』『まんこ』という言葉を使って私が会話 していたら、会話の相手方が、「なんで、『おまんこ』っていうの」ときいて きた。「なんでって、なんで、そんなこときくん」ときいたら、「大阪って 『おめこ』ちゃうの? なんで、メディアとか、関東地方で、使われる『おま んこ』っていう言葉を使うんかなと思って」と『おまんこ』という言葉を私が 使うことの違和感みたいなことを言われ、なるほどなぁと思ったことがあっ た。ちなみに、私もその人も、大阪生まれの大阪育ちで、現在私は、3年ほど 京都で生活している。確かに大阪には、『おめこ』という言葉がある。それ は、私も知っているのだけれど、実は、その言葉がいったい何を差し示してい るのかをはっきりとは知らないことに気づいた。『おめこ』という言葉を頻繁 に耳にしたのが中学校一年生ぐらいのときで、例えば黒板の隅のほうに太陽の 真ん中にちょうど一本の棒がつきささったかのようなマークが書かれたり、男子たちが、時おり「おめこしたい!!」と叫んだり、ちょっとヤンキー風の同 級生に「おめこしたことある。」と、友達が呼び出されてきかれたり、そして 当時オナニーをしていた私はもし私がきかれたら、「えっ、何それ?」とか、 「そんなんしたことない」とこたえようと一生懸命その状況をシュミレーショ ンしていた記憶がある…ということがあった。

 これらの出来事を総合して考えれば、当時から『おめこ』とは、動詞をつけ ればオナニーや性行為のことを指すということは、知ってはいたけれども女性 器のことを指すということはあまりよくは知らなかった。しかも中学生を境に してぱったりと『おめこ』という言葉もきかなくなり、性行為を差し示す言葉 はSEXという言葉にとって代わられ本当に使われない言葉になってしまった。 よくよく考えれば『おまんこ』という言葉は私が京都に来て初めて獲得した女 性性器を現す言葉(方言)なのであった。現在私の周りには、『おまんこ』と いう言葉を後ろめたさや、往々にして嫌なひびきを持ってしまう猥談の中で使 われるものとしてではなく、女性性器 を指し示す言葉として肯定的に、あた りまえに使われる「場」(京都にはいろんな大学やいくつかのコミュニティー があるのでいろんな場所から人が集る。女性性器についてもいろんな言葉があ るはずなのになぜ『おまんこ』だけが流通しているのかは調べてみると面白い かもしれない。私の場合は明らかに、大阪に住んでいた時に『おめこ』という 言葉を獲得できなかったせいである)がある。「ある」という言い方はよくな いかもしれない。「創られていた」というべきかもしれない。

 このことは、わたしの中で結構大きなこととしてあって、自分の中に他にタ ブーは無いんかなぁと考えてみたときに浮上してきたのが、『わき毛』という 存在であった。言葉の問題とは少し違うのだけれど、「ないもの 」あるいは 「卑猥なもの」というレッテル、生やしていると「失礼だ」と言われてしまう (私の友人談)『わき毛』は、わたしの幼児期の『おまんこ』が例えばお風呂 場で「なおちゃんの『おまんこ』もきれいきれいしよな」とは言われなかった ように、女である、あるいは女にみえるという理由により『わき毛』は、わた しの中においてもタブーであった。2年ほど前、わたしは真剣に自分の『わき 毛』について考えてみた。そして、その夏、『わき毛』をのばしてみた。そし て、また『わき毛』について考えてみた。女あるいは女に見える人の『わき 毛』は、いったい男あるいは男に見える人の体毛のどこに対応するのだろうか ?『わき毛』が『わき毛』に対応しないことは自明のことである。では、『ひ げ』はどうだろうか?でも、『ひげ』は無精髭は別として、(う〜んこれすら も場合によっては良いイメージが作られたりする)格好が良い『ひげ』もあ る。生やしている人も、生やしてないひともいる。やっぱり、『わき毛』は 「女イメージ」の問題であり、その夏わたしはどちらのイメージにも属さない ものとしての『わき毛』を作ってみた。つまり、『わき毛』をオレンジ色に染 めてみたのだ。これは、非常にすばらしいできだった。脇の間からはみ出る毛 が、黒ではなくピカピカしたオレンジ色であるとは本当にうきうきとする体験 であった。同時に私の友人は、赤に『まん毛』を染め彼女の髪はもともと赤色 だったので、これまたすばらしいできとなった。今年はわたしの同居人も『わ き毛』をのばし始めた。

 さて、今年は何色にしようか?

■自己紹介(おくの・なおこ)  現在は、『レズビアン?ゲイ?バイ?ヘテロ?…生と性はなんでもありよ! の会 プロジェクトP』の中の「ホモフォビアと闘うための講座」で月二回ぐ らいの集まりをもって、ホモフォビア(同性や同性に見える人同士の親密な関 係や、セックスなどを嫌悪する感情のこと)の前提にあるものは何か、身近な ホモフォビア的言動に対して、どうやってヘテロの私が、ヘテロであるかどう かに関係なく「あんたらのゆってることが私をすごく嫌な気持ちにさせる」と いう違和感を表明できるのか、ということについて考えたりしている。去年の 12月には一周年企画として、メンバー数人の発表とワークショップを行った。 その時のレジュメを販売しているので、もし興味のある人がいれば送ります。 とりあえずメールアドレスli019967@lt.ritsumei.ac.jpまで連絡くださ い。

 去年の春から発足した『セックスワークの非犯罪化を要求するグループ UNIDOS(Uphold Now! Immediate De-criminalization Of Sexwork!)』という グループにも関わっており、後述の資料集より一部を引用してUNIDOSの紹介を してみる。「私たち『セックスワークの非犯罪化を要求するグループUNIDOS』 は、私たちが自分の望まないことに自分の身体を使われることを拒否し、他者 の身体や権利を侵害しない限りにおいて、自分の望むことにのみ自分の身体を 使う性的自由の権利を主張する。この権利は、セックスワーカーにも工場労働 者にも、オフィスワーカーにも学生にも、子どもにも老人にも、外国籍者にも 障害者にも性転換者にも、女性にも男性にも、すべての人に認められるべきで あり、ペニスの膣挿入を伴っても伴わなくても(膣を持たない人にとっても・ ペニスを持たない人からの行為であっても)、おしなべて本人が望んでいない 性行為の強要はこの権利の侵害であり、暴力である。逆に当事者が合意のもと に行う性行為を、第三者が暴力と断定することはできない。むしろ当事者の意 志を無視して暴力と断定することの方が暴力といえる。」

 最近、UNIDOSの説明を友人にしたら、「昔は、「売春反対」って言ってたよ なぁ」と言われ、そういえばそんなことゆったことあったなぁ、ということを 思い出した。なぜ昔と今とで正反対の意見を持ってしまったかといえば、数年 前は、「売春」という言葉にたいして負のイメージ(性暴力や女と男の力関係 の縮図としての「売春」)しか持っていなかったせいである。今は、「売春」 という行為とそれらのことは別のことで、「非犯罪化」ということも自分の中 にすっと入ってきた。

 UNIDOSでは、昨年の京都大学11月祭において、1997年9月、台湾の台北市 で、当時の市長である陳水篇によって職を奪われた売春婦たちの闘いの記録を まとめた『私たちは働きたい―台北市売春婦組合の闘い』のビデオ上映会と、 『なぜ今、売春の非犯罪化が必要か』と題したパネルディスカッションを行っ た。この時の資料集を一部500円で販売しているので、興味のある方は取り寄 せて読んでみてください。

東京 中野「タコシェ」(TEL 03-5343-3010)
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この他に、通信販売も行っています。
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■(編集部・注)
関連図書の紹介。「売る身体/買う身体―セックスワーク論の射程」(田崎英 明・編著/青弓社・刊)「セックスなんてこわくない―文藝スペシャル・2」 (田崎英明・著/河出書房新社・刊)「発情装置―エロスのシナリオ」(上野 千鶴子・著/筑摩書房・刊)「性の商品化」(江原由美子・編/:勁草書房・刊)など。





■房主の近況■

中年の受難と恢復
―ちょっと大げさか?―

黒猫房主



 実は、演歌のフレーズじゃないが僕は「18の春」に一度痔疾の手術を受けて いる。その際は約1ヶ月間に亘って毎日臀部に注射をうって患部を腐食させる という手技で、えらく難渋したのであったが、その後20年ぐらいは再発するこ ともなく中年を迎えた今日この頃であった。

 ところがこのところ深酒をすると患部のポリープが炎症を起こし出血を伴う ので、最寄りの開業医に診て貰うと「そろそろ切り時ですね」(そんな間合い があるものか? 専門的には「手術適応」という)と宣告されたのだが、「18 の春」の悪夢が再来して踏み切れずにいたところ、「日帰り手術」というのが あると諭されたのであった。

 しかし俄には信じ難く(当然だよね)、紹介されたI病院の「日帰り手術セ ンター」に電話で手術の概略と術後の経過実績を問い合わせ、翌日には一般外 来でHドクターの診察となったのだが、この先生、患部を見る前に早くもカレ ンダーを指して「いまなら今週末に手術できますよ」と宣うのであった。

 うーむ、インフォームド・コンセント(IC)には難ありだなと思いながら逡 巡していたところ、件のドクターは僕の患部を見て「これなら日帰りで可能で す」ととと・・・「費用は幾らぐらいで・・・」「詳細は日帰りセンターの コーディ ネーターに聞いてください」とニベもないので、なるほど分業になっているわ けなのねと内心ムッとした次第だったが、当センターの主任ナースの説明は術 前・術中・術後のスケージュールリストを見せながらの応接で、費用も安上が りであったので手術承諾書に署名した次第で・・・。

 さて手術当日、僕はセンターで一糸纏わぬスッポンポンになって手術着を着 せられ、点滴を受けながら抗生物質の皮内テストを終えると、いざ出陣! 手 術室では、手術台に腰掛けて腰椎に局所麻酔(局麻)を受けたのだが(この 際、麻酔医は患者の名前の確認を忘れなかった! 基本中の基本か。この最終 確認を忘れなければ、先頃起きた患者取り違い手術の事故は防止できるのでは ないか)、この麻酔が一番痛いのではないかとかねてより恐れていた僕は麻酔 注射の瞬間思わず腰を引くと、それをナースに窘められたが5分後いよいよ手 術本番であった。

 執刀医の院長は手術台で俯せマグロ状態の僕の肩に触れて「よけいな所は切 らないからね」と背中越しに笑いかける。(ジョークのつもりらしい?)ス タッフは介助ドクター以外にギャラリーのドクターが二三人いたようで、僕は 彼らに肛門を全開したわけだが、これで全快しなければこの屈辱は救われな い。

 手術は患部に水をかけながら超音波メス(レザーメスより低温で止血しなが ら切除できるので恢復が早いわけらしい)でポリープを切除するもので、所要 時間は15分程度だった。まったく痛みはなく術中肛門にあたる水がほどよい温 かさで快感だったりもした。局麻なのでドクターやナースの会話がすべて聞こ えるなんとも騒がしい手術場で、手術室婦長らしきナースが何やらか叫んでバ ケツを蹴っ飛ばす音が手術場に木霊する。

 院長はスタッフに超音波メスの効用と切除の段取りを説明しながらの執刀で あったので、僕も耳を澄ましてその説明に聞き入ったわけだが(これが術中IC か?)、患者としては事前にこの説明をして欲しかった。この点は医療サイド の配慮が欠けると思わざるを得ない。(術前訪問による手術説明が、現在のト レンドなのだが)

 さて術後、病室で標本化された切除部位2個を見せながら簡単な説明をした ナースに、僕はあらかじめ用意していた言葉「それをください」を恥ずかしげ に発したのだったが、当然のように彼女から拒否されたことがなんとも無念で あった。というのも友人がこれを煮込んで食するという「快気祝い」の計画が あったからだが(笑)・・・。

 件の友人に伴われてその日の夕方には自力歩行で退院と相成り、メデタシメ デタシというわけで週末は自宅療養、週明けからは平常業務に就いたのであっ た 。医療費は1週間分の薬代を含めて、国保の3割実費で締めて33,260円也と い う金額と社会復帰の早さは、今日的「日帰り手術」という医学進歩の恩恵と患 者=消費者本位と喜ぶべきなのか?


■(参考)弁護士・藤田康幸氏による「私がお勧めする医療機関・お勧めしな い医療機関」のホームページ は下記の通りです。
http://www.ne.jp/asahi/law/y.fujita/med/recommend.html




■編集後記■
◆今回は<セクシュアリティ>をテーマにお二人の方にご執筆いただきまし た。加藤正太郎さんのレヴューは、渡辺淳一という「大衆の欲情に結託した」 作家のエチュールを<例題社会学的>に取り上げながら、加藤秀一のセク シュアリティ論を読み解くという力作です。また、おくのさんのしなやかでか つシャープな発想には共感します。今後の活躍を期待します。◆ロンドンで活 躍中の高橋さん(開業助産婦)の原稿を予定しておりましたが、今回は間に合 いませんでした。近い内に掲載できればと思っております。◆懸案のホーム ページは今月末までには立ち上げますので、乞うご期待?◆次号より堀本さん の「映画時評」を連載する予定ですので、ご期待ください。◆集会・催しの情 報を適宜掲載いたしますので、情報を編集部までお寄せください。◆現在の配 布数は、オンライン・オフラインを含めて約160名になりましたが、より多く の方々に購読していただきたいので、ご友人・知人の方々のメールアドレスを お知らせいただければ、送信いたします。◆ご意見・感想・投稿をお待ちして おります。


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