「ケンキョに書評」も今回が最終回になりました。連載を始めるにあたって考えたのは、できるだけ丁寧に作品を読み解き、肯定的に論じることでした。実は、わたし自身、新聞や雑誌に載っている「書評」をあまりまともに読んだことがなく、その価値と効用がどこにあるのか、さっぱり分かっていなかったのです。いったい「書評」を見て、一度読んでみようか、なんて思う人がいるものなのでしょうか。しかし「書評なんて意味ないじゃん」と考えながら書評をするのもまた傲慢な話なので、「謙虚に」まではいかなくても「ケンキョに」ぐらいの姿勢は必要かな、と考えたのでした。 けれど、そんな最初の動機に忠実であったため、その結果、嫌いな作家や軽蔑すべき作品をあつかうのを避けざるをえませんでした。「ケンキョ」さを失わず、その本のダメさを徹底的にあげつらうことができるか、これは力量が問われるところです。せっかくですから、一度「ケンキョに」かつボロクソに批判することにチャレンジしてみましょう。と、そう思って本書を最後の書評に選んだのです。 鈴木光司といえば、映画にもなった『リング』や『らせん』で一躍脚光を浴びましたが、新感覚ホラーというふれこみ以上のものはそこにはないでしょう。会話文は下手な芝居を見るようで恥ずかしいし、何より荒唐無稽なストーリーを疑似科学的説明で言いくるめようとする反動性(アホ性と読む:批評家渡部直己用語)は、圧倒的でした。逆説好きの福田和也でさえ『作家の値打ち』で最低点をつけざるをえなかったほどに、それらの評判作は救いようのないものです。 そんな作家が『父性の誕生』というようなタイトルで啓蒙書を書き下ろす恐ろしさは、『リング』の恐怖を超えるかもしれない、と思い、正直わたしはドキドキしながら本書を繙きました。案の定、日本を「単一(民族)国家」とさらっと書き流したり、援助交際を年輩の男と若い娘の「疑似的近親相姦」だと言いつのったり、また、「片親家庭」をふと「欠損家庭」と言い換えてみたり、問題発言にはことかきません。しかしこのあたりは反動(アホ)な著名人によくある通弊であって、とりあえずここでは問わずにおきましょう。 問題は、本書の眼目たる「新しい父性」というものについてです。とりあえず著者は、今まで考えられてきた「父性」のイメージを刷新しようとします。たとえば家父長的父親性など、自分の弱さを隠すためだけの空威張り、むなしい「マッチョ」でしかなかったと批判し、そのいい例が第二次大戦の惨敗だというのです。これでは百害あって一利なし、だと。一方「本当の父性」とは、家事や育児をきちんと引き受け、その上でいとしい家族を守る強さに他ならない、と自分の経験をまじえながら論を展開します。 一瞬、見るべき点があるような気がしてしまうのですが、だまされてはいけません。「いたいけな家族」を脅かすものとして、本書では近年の少年犯罪が念頭におかれ、それらをうち倒すことが想像されています。「父性」の欠落がそういう少年を増やしているという論点とあわせると、仮想敵国の脅威をとなえる国の防衛論と同質で、ほとんど扇動的だとしかいえません。また、著者はボディビルで体を鍛えるときには、なんと岩石の下敷きになった幼い娘を救い出す自分の姿を「イメージ」(妄想?)するという。確かに、リポビタンD的想像力の域を出ない作家らしくはありますが。 こうして驚くべき結論が現れるのです。「究極のマッチョとは、女性をその桎梏から解き放ち、彼女たちをも自由にする。マッチョを突き詰めれば、必ずフェミニズムにゆきつく。」『キッド』誌上で田中氏が「やっかいなマッチョ」を論じていてうなずくところが多かったのですが、しかし上の結論を見たとき、真性であれ、仮性であれ「マッチョ」自体がもともと「やっかいな」ものだったのではないのか、という気がしてなりません。彼らの「マッチョファンタジー」では、結局家事労働であろうが、フェミニズムであろうが、自分の「威力」(空威張り)のおよぶところに配置しないでは気が済まないのですから。 |