『倫理21』柄谷行人(平凡社)
村田 豪


 私が柄谷行人の発言や書き物に注意を払うようになったのは, 90年代に入ってからでした。彼のキャリアからすると、随分遅れてきた読者といえるかもしれません。はじめに手にしたのはすでに文庫化されていた『探求T』でした。しかし読んではみるものの、食らいつきさえしてみるものの、当時の私には、そうすんなり飲み込み消化することのできないものでした。というよりは、今でも折にふれ読み返してしまうことがあるぐらいですから、それを懐古的に語ることもないのですが。
 実は、書かれてあることが難しくて理解できなかった、ということを言いたいのではないのです。だいたいにおいて著者の語り口はきわめて明快で、曖昧なところはありません。むしろ困難なのは(と私に思われるのは)、読み手にある種の要請がつきまとうことの方なのです。「他者」を「理解」することのアポリアそのものを経験すること。相手との「非対称性」を認識し隠蔽しないこと。そういった根本的な「態度の変更」をうながすのですが、しかし、たとえばその「他者」という言葉に納得し、それを口にすることができるようになっても、それは著者のいう「態度の変更」になっていないのではないでしょうか。なぜなら彼の言葉を苦もなく「理解」して自分のものにするのは、まさに「柄谷行人」という「他者」性を消去してしまうことに思われてくるからです。著者の思考の軌跡を単なる便利な見取り図に置き換えて満足しているのでは、結局、彼の退ける独我論的な「聞く立場」に私自身がまたぞろ落ち込んでいるだけなのかもしれないからです。
 「理解」ではなく「態度の変更」を要求すること。今年刊行された本書にも同じような「性格」が与えられているように思います。著者は、ここ数年取り組んできたカント読解から得られた「倫理」と「自由」の関係や「責任とは何か」についての考えを、社会的事件や戦争責任の問題につなげながら非常にわかりやすく説き起こします。たとえば、若い人間が何らかの犯罪をおかしたとき、日本ではやたら「親の責任」が問われ、異様なまでのバッシングを受けることがあります。教育や家庭環境がそういう事件の原因だと見なされるからですが、著者はそれは間違っている、といいます。確かに原因はある(社会や学校や親、その他無数に)、しかし、それと「責任」を混同してはならないのです。原因を徹底的に認識する必要と、そして原因をいくら突き詰めても、そこから帰結しないような問題もあることを受け止める必要。著者はそれをカントの認識と「倫理」の区別、ひいては「自然」と「自由」の区別に重ね合わせるのでした。  この区別は私には決定的に思われます。確かに私たちは何をするにしても何を考えるにしても,まったく「自由」ではない。いいことをしようが悪いことをしようが、必ず何らかの自然的・社会的諸原因に規定されていて、いわば「そうするしかない」のです。にもかかわらず人はそんな諸原因から「自由」でなければならない。自分ではどうすることもできなかったことさえ「自分の意志で(自由に)行ったこと」として引き受けなくてはならないのです。その時はじめて「責任」が問われるべき場を持つのです。
 しかし本書の中身をこのようにまとめること、それだけなら案外簡単なことです。どちらかというと言葉の上では著者の退ける共同体の道徳のそれとたいして違いがないようにも思えます。つまり言葉づかいが重要なのではないのです。むしろそれらによって問われているのは「態度の変更」の方だということを忘れてはならないでしょう。
 ただ、やはり問題になるのは、「自由であれ」というこのカント=柄谷的「至上命令」が、その実はじめから「不可能」だと見なされている点です。だいたいにおいて私たちがその「普遍的道徳」を実践するにしても、彼らの言葉からそうするわけですから、すでに「自己原因」的ではありません。この意味でも「自由」ではない。おそらく著者も自分の本を読んだ読者がすぐにも「倫理」的になるなどと端から期待してはいないでしょう。そんなことはありえない、と。しかし著者は同時に、私たちがこれらの問題に結局は直前せざるをえないとも考えています。たとえば第八章にこんな一節がでてくることに注意すべきです。

 カントの考えでは、道徳法則(目的の国)が実現されるのは、たんに統制理念の働きというようなものによってではなく、むしろ実際の攻撃性によってである。このように見ると、カントがいう人間の本性(自然)に存する「非社交的社交」が、フロイトが死の欲動あるいは「攻撃性」と呼んだものに近い意味をもっていることがわかります。(p134)

 要するに人が「攻撃性」を持つ限り(しかもフロイトの「死の欲動」に結びつけられている意味において、これは取り除くこともできずに自己を苛み続けるものだから)、「倫理」的態度に向かうのは「不可避」であろう。ただし、甚大な被害をもたらした世界大戦によって国際連合が形成されたように、「攻撃性」が剥き出しになることによってしか「倫理」的になる契機はないとするなら、その「倫理」は普通考えているよりは、悲惨なものかもしれない。というよりすでに「攻撃性」は、国家においても個人においても抑えがたく噴出しようとしている……。このように本書を貫く認識は、十分にペシミスティックだともいえるでしょう。
 いえ、もしこの認識のあり方に驚くなら、「自由」を「不可能」だと知り、しかしこの「不可能」を切断する契機としての「攻撃性」を「不可避」と見なす著者の徹底的な認識に強く打たれるなら、本書そのものが、そうした「不可避」をうながす「反復強迫」として機能するかもしれません。著者のいう「攻撃性」や「死の欲動」は、必ずしも暴力そのものを指すわけではないのですから。むしろそれらは自己に向かう「攻撃性」としてこそ認識される、というのがフロイトの知見でしょう。このことを「理解」することが、いわばこれからの世紀の「倫理」ということなのでしょう。





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