『プライベート・ゲイ・ライフ ポスト恋愛論』
伏見憲明(学陽文庫)

村田 豪


 この本をひとことで明快に言い表すことばはないかと自分なりに考えていてふと思いだしたのは、ロラン・バルトがマルキ・ド・サドを評して言った「繊細さの原則」ということばです。サドというと「サディスト」の語源だから、常に暴力的とイメージされてしまう。けれどそういう捉え方のほうがいわば暴力的であって、そこにある「繊細さ」のあり方を読みとること、それこそまさにサドの勧めるところなのだ、とバルトは説いていたのでした。これは自戒の意味を込めて言うのですが、たしかに私たちは徹頭徹尾イメージに弱く、何においても粗雑な把握や見取り図に寄りかかりがちではないでしょうか。たとえば本書のタイトルの「ゲイ」ということばを見て「きっと〜な本なんだろうな」という思いこみを少しも持たない人のほうがかえって少ないくらいでしょう。けれど本書はそういう一つの思いこみをおそらく訂正させるはずです、が、それだけでなく(それだけだと思っていることも思いこみの一部ではないでしょうか)、どのようにすれば事物が「繊細さの原則」に従うかをも示してくれているように私には思われます。もちろんサドの作品と本書は内容においてほとんどなんの関係もありません。けれど、大胆かつ果敢にゲイとしての生き方を表明する著者が、一方で、「同性愛」対「異性愛」という単純な分割だけにとどまらず、複雑で、多くの人にとってはまだ気づかれてさえいないような「性(愛)」やそれに基づく関係のありようを、きわめて「繊細」に読みとこうとしている姿は、まさにそのことばがピッタリするのです。
 文庫版あとがきで著者の伏見さん自身が触れているところによると、単行本として出版した91年当時はまだ、自らをゲイであると公にしかつ普通にゲイについて語ること自体が、たいへん困難だったようです。十年近くたち、折にふれ、レズビアン、ゲイあるいはクィアということばを耳にし、その問題意識にふれる機会の多くなった現在からすると、本書は抵抗なく理解できる読み物でもあると思います(同性に恋し欲情することに気づいた思春期以来の苦悩の日々と克服の記録、自分たちのライフスタイルを赤裸々にきわどく語るパートナーとの対談など、おもしろさに事欠きません)が、今そう受け止めることを多くの人に可能にさせたのは、他ならぬ本書と著者が、自分に対しても、他人に対しても丁寧さを失わないで繊細に「性」の問題について問いかけを深めていたからだということを忘れてはならないでしょう(もちろん、ときに露骨に自分の「インラン」ぶりを披瀝したり、突然「オネー言葉」で人をくさすのを含めてのことです)。
 著者が後にレズビアン/ゲイ・スタディーズからクィア理論まで、評論活動の幅を広げているのも、以上のことと無縁でないように思います。とくにフェミニズム的考察から展開されるセクシュアリティの構造分析は、緻密です。私は正直うなってしまいました。たとえば私は普通自分を「男」とごく簡単に分類するし、されるのですが、実は、性的指向において「女制」(伏見さんの造語・ジェンダーにおける女性)を求め、見かけは「男制」(ジェンダーにおける男性)を装い、生物学的には「オス」である、とカテゴリーごとに区別しなければ、なんのことだか意味が不明なのです(同著者の講談社現代新書『〈性〉のミステリー』では、性自認・戸籍の記載・実際の性器というカテゴリーが追加され、さらに問題が洗練されています)。そして秀逸なのは、この複雑に組み合わせを考えうるセクシュアリティが、同じく複雑な他のセクシュアリティーとどんな性的な関係を結びうるのか考察せよ、と求めていることです。私自身の粗雑で、「どヘテロセクシュアル」なあり方を、著者は、「繊細さの原則」を通じて問い直すように促してくれている、そう思わずにはいられないのでした。「わかっている」つもりの人も、一読の価値ありだと思います。





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