『風流夢譚』深沢七郎
(『中央公論』1960年12月号)
村田 豪


 もう40年も前に雑誌連載をされただけで本にもなっていず、現在普通には読むことのかなわない作品を取り上げるのは、「書評」のルールに反することかもしれません。同じ作者を扱うにしても、普通なら文庫本などで手に入りやすい作品を選ぶべきなのかもしれません。ですが、やはり、発表後巻き起こった右翼からの抗議を背景に、掲載誌出版社社長の自宅を右翼少年が襲い、殺傷事件を引き起こすにいたった本作を避けて、深沢七郎に触れるのは、どこか白々しさをともなうものではないでしょうか。作者のその後のあり方を刻印し、それ以前からの作品の特有さを、さらにくっきりと浮かび上がらせたのは、ある意味では、「風流夢譚」だったと考えられるからです。
 物語は、語り手が夢の中で遭遇する、東京市街の革命騒ぎと皇居での天皇一家の「落首」を中心に展開されていて、テロはその天皇や皇室に対する扱いや描写に刺激されたものでした。事件直前まで、当時のジャーナリズムや文壇は、作品評価は別にしても、天皇(当時は裕仁)一家を無残に描いたことでもって、作品の存在そのものが否定されなければならない、とまでは考えなかったようです。が、事件によって一転、「風流夢譚」は掲載出版社によって「不適当な」作品として否定され、以降、日の目を見ることはありません。
 小説が天皇を描けないでいること、描こうとしないことさえ意識しないこと、そのことを前提とした現在の「文学風土」にたいしての批判は、渡部直己『不敬文学論序説』(太田出版)に詳しく論じられています。私も深沢に目を向けるようになったのは、同書をもってでした。そして、何よりも驚いたのは、テロリズムによって「禁書」の憂き目にあったということから想像させるイメージとは違って、「風流夢譚」が徹底的に「小説」として書かれていることでした。  深沢の小説の作風を強く規定しているものに、その独特の語りがあることはよく知られています。人減らしのため老人を山奥に捨てる風習を持つ貧村を描いた「楢山節考」では、その衝撃的な残酷さを、作者の語りは、喜んで山に参る老婆おりんに対する慈愛のような寄り添い方のなかに、逆説的に実現しているし、『庶民烈伝』の「序章」では、「庶民」の滑稽さは、作者の話にいちいち「庶民ですねー、それは」と相づちをうつ聞き手との掛け合いを通してこそ、引き出されています。本作品においても、作者とおぼしき語り手の口調は際立っていて、笑いを誘う天皇の辞世の和歌の解釈の披瀝のさせ方や、皇太后と罵りあいながらも自分の口にした「糞ッタレ婆ァ」を考察する箇所のとぼけぶりは、絶妙と言ってもいいでしょう。
 しかし同時に本作では、この語りが、単に深沢的な雰囲気を形成しているだけではなく、周到に一編の構成ともかかわっている点を見逃せません。たとえば、革命と天皇たちの首切りは「夢」にみたものだと設定されているのはなぜでしょうか。従来は作者があらかじめ用意したアポロジーだとみなされてきました。が、逆に「妙な非現実感」が「酸鼻なようで明るく、明るいようで無残」(日沼倫太郎)な印象を際立たせているのだとすれば、この「小説」という虚構の中のさらなる「夢」は、言い逃れではなく、リアリティーに向けてこそ組み込まれている見なすべきでしょう。その証拠に語りは、「夢」としての強い印象をむさぼるごとく、ことあるごとに「どうしたことか」「私が変だと思うのは」「後で納得できたのだ」と繰り返すのですが、しかし注意すべきなのは、この言葉づかいが実は「覚めた場所」からの「夢」の手触りを暗示し続けていることです。この反復は、短い作品の中で執拗であり、疑いなく、あるべき効果へ向けて仕組まれています。
 そう考えると冒頭の書き出しは、無意識的だと見なされ続けた作者の、事件後そのように「抑圧」され続けることになる作者の、前もっての反発が示されてはいないでしょうか。「あの晩の夢判断をするには、私の持っている腕時計と私との妙な因果関係を分析しなければならないだろう」つまり、この一編こそが、天皇についての無意識の分析そのものだと、書き手はそう宣言しているように読めるのです。そして実際、この分析にたいし、日本の言説空間は強烈な抵抗を示し、現在もなお「精神分析」されること、「治癒」されるを拒んでいるのです。  最後に同作品は、大きな図書館なら雑誌掲載号で現在も読むことができます。





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