『ベルセルク』〔1〜20巻〕三浦健太郎(白泉社)
評者・村田 豪


 本書は青年マンガ雑誌に現在も連載中の人気作品です。近年、浦沢直樹『モンスター』や井上雅彦『バガボンド』のように、少年誌よりも青年誌から、数百万部を誇る大ヒットマンガが生まれる傾向にあるようですが、同書もそのうちの一つといっていいでしょう。
 青年マンガとして括られるこうした作品が、強く支持されるのには、当然様々な要因があると思いますが、わたしが気づくのは、「人物造形」への意識の高さという点です。描写力、物語の展開、画面の構成、どれをとってもおそらく本書を含めた上記のマンガは、現在もっとも実験的であり、同時に劇画系マンガの王道をいくものであるはずですが、その技術の成果は、一群の人間くさい人物たちの造形とともに、物語の中心に据えられる「人間らしさを超えてしまうほどの人間」(ヨハン、武蔵、グリフィス)の造形にこそ向けられているのです。それゆえ、多くのマンガが共有してきたはずの「単純さ」「明快さ」からは、いきおい逸脱しているともいえるでしょう。
 なかでも『ベルセルク』には、普通には理解しがたい要素が多くあるように思います。物語は、中世ヨーロッパのような世界を舞台とし、復讐に燃える主人公の剣士が魔物や異形の怪物と闘う、というものであり、よくある幻想文学や劇画ファンタジーの一種といっていいと思います。おそらく作者も、作品を書き始めたときには、そのつもりだったでしょう。しかし、主人公の復讐物語の前史たる「黄金時代」が第3巻から振り返られ始めるや、それまでにない繊細さと力強さが描線に宿り、作品世界の奥行きが数倍の規模で広がりをみせます。それが第13巻まで続くのですが、作品はこのとき劇的な構造の変化をも被りました。この挿話は、完成された暁にはおそらく作品全体にとっては「プロローグ」にすぎなくなるはずですが、この部分だけが一つの作品としてTVアニメ化されたように、その完成度は「プロローグ」と「本編」の主客を転倒させるほどに圧倒的といわねばなりません。6年に及ぶ「プロローグ」の制作過程で、作者は自らも予期できないほどの飛躍を果たしてしまったのです。
 しかし、それはまた単なる作品の完成度や物語構成の破格という問題だけではありません。主人公の復讐の動機となる出来事(魔物たちによる仲間の大殺戮、目の前での恋人の性的蹂躙、その犠牲を払わせた盟友の裏切り)が、実は読者の感情移入のある限界、約束事を超えてしまっているところが、『ベルセルク』を異様な作品にしています。マンガにせよ映画にせよ小説にせよ、読者(観客)が物語を受け入れるということは、登場人物に対する「信」が存在するということに他なりません。人物がどのような性格、役柄であれ、それを固有な存在として認める感情が働いているはずです。そういった読者の感情移入のあり方までを、根こそぎにするほどの「裏切り」を本作は組織しえた(してしまった?)のでした。
 『ベルセルク』が評判となったのは、やはり「人間ならぬ人間」というものの人物造形が、読者のそうした「信」までもえぐり取るまでに至ったことの衝撃にあったように思います。そういう意味では、現在連載中の物語が、ある「殺伐さ」との闘いであることにも注意を払わねばなりません。完成された濃密な物語はすでに「プロローグ」において終わっているのです。読者がかつてのような濃度で作品を受け入れることは、おそらく難しくなっているでしょう。しかし、本作はこの「殺伐さ」に疲弊せず、今まで以上のより力強い描写と新たな詩情(そしてさらなる物語の過酷)の創出によって、なお読者を引きずり続けようとしています。この10月に最新の第20巻がでましたが、物語の構造上避けようのないマニエリスムに耐えつつ、『ベルセルク』は、今も最高の作品であることを証明しているのでした。
 余談ですが、上記のような内容であるからには、「道徳的」に目を覆いたくなる本書を、わたしは誰にでも無闇に勧めるつもりはありません。もっと「いいマンガ」は他にあるでしょうから。






TOPへ / 前へ