『共生虫』村上龍(講談社)
村田 豪


 「小説は何のために書かれたり読まれたりしているのか」本書『共生虫』について考えをまとめようとしていて、私はこんないくぶん古典的ともいえる設問にとらわれてしまうのでした。というのも、本書が「ひきこもり」を題材にした小説だとうたわれ、またそのように読まれざるをえないからです。作者は世相や時代状況を作品に盛り込むのに定評のあるすぐれて現在的な書き手ですから、そこに問題の所在や「答え」そのものを探してしまうことにも根拠がないとはいえません。けれど小説はそれほど無条件に「有用」なものなのでしょうか。
 たとえば主人公ウエハラは中学校二年から8年間自宅近くのアパートに一人こもりっきりになっていたのですが、自分には殺戮と絶滅の証となる「共生虫」が宿っていることに気づきます。多分に妄想的で、だからなおさらそれを確信するところにいっそうのリアリティを生んでいるこの秘密が、彼に父と兄を撲殺させる根拠になります。ふつう人を殺して妄想は行き詰まるのでは(恐怖、嫌悪、呵責、逮捕、罰などによって)と思うのですが、むしろ確信は強まり、奇妙な女から暗示された防空壕跡を探し出させ、小説は最終的に主人公にずっと先への開かれた気分、いうならば「希望」を与えて終わります。しかし実際の「ひきこもり」の問題を考えるなら、この「希望」は通常考えられる希望とは似ても似つかないでしょう。こんな解決はあり得ない。むしろ「ひきこもり」=「妄想的」=「犯罪」という結合が、社会病理を好んで語る評者たちに格好の素材を提供しているように思えます。この点では「有用」どころか「有害」でさえあり得るわけです。実際私が目にした書評では、必ずその社会病理的な側面が多かれ少なかれ指摘されているのでした。
 小説を本気で世間の反映(または世間を小説の反映)として「有用」だと捉えるなら、作者の考える「希望」は、主人公が信じる「共生虫」と同じように妄想の域を出ない、と断罪してもいいはずです。誰が実際の「ひきこもり」を「殺人」によって打開することを奨励するでしょうか。ところが多くの読み手はこの問題を「小説など所詮妄想にすぎないんだから」と一方で安直に受け入れながら、同時にその妄想にすぎないと見なした「小説」において実際の「ひきこもり」を語ろうとするように思えます。そのときには「ひきこもり」を問題として受け止めるどころか、作品内の妄想に飲み込まれているだけなのではないでしょうか。小説家の作った妄想に賛嘆し、同時にそれを実際の社会的文脈として語ること。私にはこんな混乱こそが最大の「有害」さだと思われるのですが。
 しかしそれでも私は本書を「ひきこもり」において読むべきだと思います。ただし上記のようなほとんど誤読ともいえるような意味においてではなく、小説が「真実」について幾分かの価値を持つとはっきり意識される点においてです。たとえば主人公の抱く「希望」は、「ひきこもり」の意味が明確になるからに他なりません。広大な丘陵地の雑木林に分け入り、毒ガスの隠された防空壕を見いだす過程で、主人公は世界についての認識をドラスティックに変化させます。意識を鋭敏にし的確に行動すること。これが彼に自分の向かうべき方向、その「流れ」を理解させたのでした。そしてその認識には、不要な接触を断ち切ることからしか至れなかっただろうと、「ひきこもり」の時期を肯定することになるのです。
 ここに書き手の一番の意図を見つけるとするなら、タイトルの「共生虫」ということばは、ひとつのコノテーションを持つことになるでしょう。つまり「ひきこもり」は、一時「寄生」的であるけれども、不要な関係の中で漫然と生きるものたちに比べれば、「寄生」を食い破る「共生」へと開かれているのだ、と。そして、そのとき実はもう一方の「寄生」を滅ぼすことになるにしても、と。





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