「差別」をめぐる問題構成

菅原四十郎

1.差別問題の発生
 差別を告発する言説は、現在多様な広がりと重層性を顕わにしている。部落差別、障害者差別、性差別、民族差別、職業差別、能力差別、病気差別・・・等々。  ここには、様々な情況における当事者間の「差別をめぐる関係」が、確実に存在しているように思われている。
 この事態を如何に捉えればよいのか。相手に不利益を与える不当な事象のすべてが「差別」であるわけではない。だが差別は、それ自体「不当な」問題情況として出現する。

2.告発をめぐる関係
 個々の差別事象の当事者間では、被差別者が差別者を名指し、その不当性を告発する構図が生まれる。そして、当の名指された側は、この告発を得てはじめてそこに差別事実が存在していることに直面させられるのだ。
 だが一般的に言って、告発された側は「差別している」ことを知らないばかりか、その「意志」すら持ち合わせていないことが多い。
 このことから告発に対して名指された側は、次のように反論するだろう。

 自分は差別者ではない→なぜなら、差別してはいけないことを知っている自分は差別する意志など持っていない→だから差別はしていない→故に自分は差別者ではない!

 この論理(トートロジー)において、告発された側は自己の正当性を目指すだろう。一方は「差別していること」を知らないが、他方は「差別されていること」を知っている。(差別されている者にしか、この痛みはわからない=差別拝外主義?)かくして、差別の言説をめぐって差別者と被差別者の<絶対の関係>が生まれる。
 このことは、双方にとって不幸な事態である。なぜなら、この事態は差別の「相互確認」を困難にしており、差別を対象化する契機を喪失させるからだ。
 「差別者―被差別者」の図式の絶対化は、<問題としての差別>の共有を妨げている。とくに「代理」告発は、得てしてこの当事者関係の絶対化を促進する傾向が強いのではないか。当事者性は、差別の相互確認の基礎なのであって、その前提を踏まえない「代理」行為は、差別問題を無限定に拡散=抽象化させてしまうように思う。

3.差別をめぐる倫理問題
 「差別の対象化=相互確認」を困難にしているもう一つの原因として、<問題としての差別>が倫理問題として仕組まれてしまう点が挙げられる。
 告発者は、被告発者に対して差別の「自己確認」を要求し、次に「差別を如何に捉えるのか。差別者であるお前じしんは何者か」と差別者の人間性(自己省察)へと突き進んでゆくに違いない。(差別を「個別性」に還元してしまうことの危険性)
 このとき、告発者は被告発者に対して倫理的に「超越者」の立場を<仮装>してしまう。このことは、不可避的であるように思われる。
 他方告発された側は、(その自己省察において)「差別は悪である」という倫理的要請を前にして、倫理的に自己が劣位であることを先験的に自覚すればするほど、差別に対しての自己責任を無限的に背負わされているように感じるだろう。(差別者としての無限規定)
 だがこの過剰な倫理観は、必ずや倫理的抑圧に収斂するしかない。この倫理的抑圧から逃れるためには、彼は居直るか、無限に被差別者に擦り寄ってゆくしか方法がないように思われてしまう。(例えば、障害者運動を支援する者が、自分も「障害者」になることを志向するという転倒した感覚など)
 この関係では、差別者はあくまで倫理的に悪で、被差別者は超越的に善である、という図式しか生み出さず、<問題としての差別>は疎外され続けるのだ。

4.差別の本質(『「差別の論理」とその批判』江原由美子、より整理)
(1)差別の本質は、その<非対称性>にあり被差別者が<排除>されることにある。(「差別の論理」を隠蔽することによって、<排除>は正当化される)
例えば、女は、男でないことによって男社会から排除される。
(2)財の希少性一般に基づく財の不平等分配(不利益)は、差別によってもたらされる結果であって本質ではない。
(3)「差異」は「差別」の根拠ではない。
被差別者は、単に外見的・可視的な「標識」において認知され、そのことで<排除>される。(有徴性=指標としての「差異」)
しかし例えば、障害者差別において、身体的・自然的差異が問題にされるが、座標軸を移動すれば、指標としての「差異」は意味を持たない。しかしこれは、実在としての<差異>それ自体を否定するものではない。。
(4)差別は、必ずしも差別者側の差別しようとする意志を必要としない。
差別は利益を求める目的行為でもなく、病的な異常心理でもない。それは差別者も被差別者も共有している社会規範や社会意識に根拠をもっている。
(5)被差別者は、差別の告発(挙証責任)を強いられる。このこと自体、被差別者にとっては不当なことである。

5.カムアウトとアイデンティティをめぐる問題
 部落差別における「部落民としてのアイデンティティ」を問題にしてみると、女性であることや障害者・人種による差別とは、微妙に位相が異なるように思われる。
 それに対して、同性愛者差別と部落差別には共通性がある。それは外見からの徴表によっては、差別されにくい。言い換えれば、差別されることから逃れることができるということだ。その出自(?)を隠蔽することが可能だからだ。
 差別している側の主張は、被差別者にはそれなりの理由があるからだと、つまり「謂われある差別」である故に、それは「合理的な差別=区別」であって「差別ではない」と言い募るであろう。その「謂われ=根拠」と思われているものは、「観念の共同性(共同幻想)」に由来しているのであって、実体的な何かではない。
 また反差別闘争も、差別の実体を強調するあまり「被差別意識」の呪縛に捕らわれる傾向がある。(立場・資格の絶対化、踏まれた者にしかその痛みはわからない!)だから差別解放思想は、この共同幻想の呪縛を相互的に解体する方向で考えられるべきではないか。
 そこで、次の事例を考えてみる。
 「部落史の終わり」の著者・畑中氏は、血縁としての部落民は三代前に遡ればその血統は不明なのだから出自を問うことは無意味だといっている。(これに対する様々な立場からの批判がある)
 最近では、在日韓国・朝鮮人と日本人との間の子供を国籍条項の関係から「ダブル」と呼ぶ言い方があるようだが、では「部落民」と「部落外者」との間の子供は「ハーフ」とでも呼べいいかと、灘本昌久氏の文章がある。
 さて、このハーフ(仮にそう呼んでおく)の子供が「部落民」と他称されて差別された場合に、彼はどうするだろうか。
 <負の他称>に対して、栄光ある「部落民の歴史」に自らをアイデンティファイする事によって、<正の自称>を獲得する方法がありえる。カムアウトとは、本来この<正の自称>の獲得のことをいうのであろう。そして<負の他称>である「部落民」が<自称>によって誇りを恢復すること、また厳しい差別の現実と戦う主体確立にカムアウトは有効なのであると思われる。
 しかしカムアウトすることによって、「謂われなき=無根拠性」に根拠を求めるというアイデンティティの隘路にも遭遇しなければならない。このことは、差別者による<負の他称=ラベリング>がある限り、被差別者が自らのアイデンティティを問題にせざるを得ない。いわば仕組まれた課題だといってもよい。(念のために言っておくが、少数者のアイデンティティや差異を抑圧することには反対である!)
 「部落民」と名指された場合に、「ではなぜ、あなたは自分のことを部落民ではないと思うのか」と名指した相手に反問しないのだろう。このように<他称>の矛先を反転してみるとよい。このズラシ方は、有効な反撃にはならないだろうか。アイデンティティを<無化>すること。
 そして昨今では「そんなの関係ない」と負い目を感じることなくアイデンティティを拒否する世代が生まれてきているようにも思われる。ここには、差別を<本質主義>から解放=開放する視点が開けてはいないだろうか。(本質主義から関係主義へ)
 もちろん現実の差別があり続ける限り、それへの闘いを回避することはあり得ないが・・・。そろそろ別様の闘い方が、模索されてもよいように思えてならない。

(参考文献)
「「差別の論理」とその批判」江原由美子(勁草書房)
「シンポジウム 差別の精神序説」横井清ほか(三省堂)
「反差別論」柴谷篤弘(明石書店)
「同和こわい考」藤田敬一(阿吽社)
「「同和こわい考」を読む」こぺる編集部・編(阿吽社)
「「ちびくろサンボ」絶版を考える」径書房・編(径書房)
「差別糾弾―その思想と歴史」八木晃介(批評社)
季刊「仏教NO.15 特集=差別」(法蔵館)
「身分・身元・アイデンティ――「部落民」とは誰のことか」畑中敏之(「こぺる」1997年4月号・NO.49所収)

■(すがわら・しじゅうろう)中年のフリーランサーにして、ミュージシャンでもありたいと思っている。
■「現在」を読む会・レジュメ(1991/11/15)■1999/08/08加筆改稿




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