1. 天皇制という言葉は流通していても、その実体は捉えどころがない。ナマコはヌルヌルしていて不気味だが、珍味である。天皇制は不気味だが、ナマコではない。ナマコは<実体>をもつが「天皇制は、信じられることによって成り立つ想像のシステムである」と、栗原彬は言明する。これを拡大して、広義の宗教であるともいう。 2. 宗教としての天皇制 天皇制は、千数年の時間を生き続ける不可視のシステムなのだ。それは、農耕社会の祭祀者として、時間を統べる宗教的支配者としてあり続けたのだ。この宗教的支配は、今日においても不変なのだ。これは事実である。あなたが、それを否定しようとしても天皇サイドでは宗教的祭儀を一方的に支配してきたのだ。この天皇制における宗教的威力の本質については、吉本隆明の「天皇および天皇制について」が解明してくれる。 3. 構造としての天皇制 「王権論」一般としては、捉え尽くせぬ天皇制の特徴を以下に整理すると、 (A)天皇=ゼロ記号=母=権力なき天皇=象徴(自然) (B)天皇=超越(聖性)=父=武装せる天皇=親政(作為) AとBは相互転化する。それを可能にするのは、天皇の位置が、すでにつねに、「空虚な中心」=「ゼロ記号/超越」を占めているからなのだ。 この「ゼロ記号/超越」は、永久不滅の記号だから、これを解体するのは困難である。では、どうすればよいのか? その解として例えば柄谷行人は、天皇制は<毒>ではなく<症状>なのだから、打倒するのではなく解消すべきなのだと、答えている。 (天皇制の<外部>へ逃亡する。) 左翼的ディスクールで、天皇制「打倒」をいくら唱えても(天皇制システムに吸収されてしまうということなのか。 4. 抑圧的融和の弁証法=無の弁証法としての天皇制 ゼロ記号型聖の支配システム―天皇に対して、<赤子>としては平等(朝鮮人の日本人化―他者の不在―みんな同じじゃないかというディスクール→寛恕の政治学)。 ●自発的服従あるいはグラフト国家論について 下位の共同体の「共同幻想」を上位の共同体が吸い上げると、下位の共同体が、本来の自分の部族の神なり共同幻想なりに従おうとするならば、ひとりでに上位の共同体の支配を認めざるを得くなってしまう、そういうシステムで支配・被支配の構造が出来上がることをいう。 5. フェミニズムと天皇制の関連について ラディカルフェミニズムは、近代的個人主義の極北と言ってもよいだろうか。それは、天皇とは明らかに相容れないイズムである。しかし、エコロジカルフェミニズムが天皇制とミスマッチする可能性は、極めて大きい。女性に刻印される<母なる像>とポストモダニズムとの合体ロボットの近衛兵として、エコフェミは天皇制を護持するかも知れないのだ。 ■吉本隆明・著「天皇および天皇制について」より引用 じっさいに〈天皇(制)〉が農耕社会の政治的な支配権をもたない時期にも〈自分ハソノ主長ダカラ農耕民ノタメ、ソノ繁栄ヲ祈祷スル〉というしきたりを各時代を通じて世襲しえたとすれば、この世襲には〈幻想の根拠〉または〈無根拠の根拠〉が、あるひとつの〈威力〉となって付随することは了解できないことはない。いま、〈大多数〉の感性が〈ワレワレハオマエヲワレワレノ主長トシテ認メナイ〉というように否認したときにも、〈天皇(制)〉が〈ジブンハオマエタチノ主長ダカラ、オマエタチノタメニ祈祷スル〉と応えそれを世襲したとすれば、この〈天皇(制)〉の存在の仕方には無気味な〈威力〉が具備されることはうたがいない。わたしの考察では、これが各時代を通じて底流してきた〈天皇(制)〉の究極的な〈権威〉の本質である。■ ■(あわじ・けん)謎のフリーランサーあるいは影武者? ■「現在」を読む会・レジュメ(1990/2/23) |