私は私です!
――あるカップル喫茶摘発をめぐる言説について――

加藤正太郎

 ことさらあらたまった調子で口火を切ったのは、大阪府警鶴見警察署保安第一課管理官なる人物であった。
 「今日やりますのはですね。カップル喫茶でございます。ここは客にわいせつな行為をさせるのが売り物の店であります。また逆に、客はそれのみを目的にして行っておる店であります」。そしてこの演説じみた説明に聞き入っているのは二十人あまりの捜査員たちであり、講演会の聴衆よろしく机を前に座りこんでいる彼らが手にしている資料には、『カップル喫茶「××」における公然わいせつ被疑事件取締り編成表』と題されているのだった。つづいて映像は現場での指揮をとるらしき中堅刑事の姿を写しだしていたが、その自信ありげな身振りで指さしている黒板には、事前に入手した敵の布陣を誇示するかのようにこれから踏み込む店内の詳細な配置図が描かれ、彼の説明によると問題の店は「男女のアベック客がわいせつ行為を行う。このわいせつ行為自体が店内のお客さんから見える」構造になっているという。
 その後映像は、夕刻を過ぎた暗やみの中へと数台の覆面パトカーが出動していく光景へと切り替えられたが、その時BGMとして重ねられていたのが威勢のいいロック調音楽のイントロ部分であったことは言うまでもない。
昨年の暮れ(一九九五年一二月二十五日)、読売テレビが放送した「歳末大都会犯罪捜査網&報道スクープ映像」は、ある喫茶店の摘発される様子を、署内で行われる打ち合わせから逮捕者の連行までを追うドキュメント仕立てで大々的に伝えるのだったが、テレビ雑誌では予告されていなかったこの映像が、当日の新聞においては「潜入!」などと番組内容のトップにあげられていたところを見ると、この4時間半に及ぶ番組の中でも最新かつ目玉の扱いであったにちがいなく、事実、先の「取締り編成表」には、「平成7年12月7日」(意図的にか日付けの7の部分は半分ほどしか写されておらず不正確だが)と印刷されているのだった。
 こういった種類の番組がいつも用いる手法、つまり捜査員に同行したカメラマンがなんの了承も得ないまま被疑者を撮影し(彼等は警官であるかのように振る舞い、警察はその詐称ともいえる行為を黙認しているのであろうか)、犯罪者扱いするやりかたそれ自体をまず問題としなければならないかもしれないが、いまここでたどりたいと思うのは、この番組の中で繰り広げられる自信たっぷりな言説とその裏側で相手の出方をうかがっているかのような振る舞いについてである。ことさら取り上げるに値しない恒例番組の一つに過ぎないという声に答えるつもりで言い添えるならば、言説とは常に何らかの振る舞いをともなうものであり、ときに言明された内容以上に何かを訴えるのだとすれば、その振る舞いについて考えてみるのも意味のないことではないだろう。そしてもし、自らの周囲をひるがえって見渡すとき、どこもかしこも性についての情報に満ちあふれている光景があり、一見には性とは関わりのない事柄についてすら性的イメージが動員され、さらにはこれらの事態についての言説が再び供給され消費されるのを目の当たりにするならば、性をめぐる言説の一大供給源としての「恒例」番組を分析してみたいという動機も理解されるだろうし、意外にもそこに性にまつわる大真面目な意見(売春やポルノについての賛否両論など)と通底するものが見つかるかもしれないのである。
 さて、今回の舞台となる「カップル喫茶」とは、男女のペアであることを入店の条件とする喫茶店のことをいうのであり、店の「売り物」は、その条件によって確保される男女間行為の自由な空間であると言えるだろう(したがって客は、行為を仄めかしたり実際に見せ合ったりすることで性的昂奮を高めうるだろうし、中にはSM的行為やスワッピングを目的とする客もいると言われている)。一昨年の秋頃から流行し始め、昨年夏頃からの摘発や警告(大阪ではAPEC開催にあわせて摘発、警告が続いたと聞く)によって一時壊滅状態になり、その後様々な形態での復活が噂されているが、最盛時には大阪、東京を中心に十数店が営業し、男性週刊誌を初め、夕刊紙、情報誌はもちろんのこと、「週刊アエラ」にまで特集記事が組まれたという。つまりこうしたブームともいえる現象からも推察できることは、その言わばいかがわしい空間からの誘惑に抗しがたい思いを、決して少数ではない人たちが一度や二度は抱いたことがあるということであり、もしそうであるならば、大勢の刑事たちによって演じられる今回の物々しい捕り物劇は、喝采や声援を送る者たちばかりに見守られているわけではないということである。そしていま一度、さきの警察官の演説にゆっくりと耳を傾けてみるならば、そこに様々な興味深い振る舞いが演じられているのを見ることができるだろう。
 「客にわいせつ行為をさせる」のが店の「売り物」だと管理官はまず冒頭に言うのだが、もしこの「させる」という表現が嫌がる客に何らかの(退出を禁じる等の)強制力をもって行為を強いるということを意味しているのだとしたら、管理官がつづけて指摘するところの「それのみを目的に行く」客、つまりは自らすすんで「わいせつ行為」を行う者の存在と矛盾してしまうであろうから(「強制わいせつ」が摘発の理由ではないことは番組全体の文脈から読み取れる)、この二つの説明を矛盾なく理解しようとするならば、冒頭の一文については「客が店内でわいせつ行為をする」というぐらいにしか読み換えることができないだろう。そしてもしそれ(店は「わいせつ行為」を強制しない)が事実だとするならば、ここでいう「わいせつ行為」はさしあたり、客が「自分の意志で行う性的行為」を意味していると解釈するのが自然である。一般に「性的行為」には抱擁から性交までのさまざまな行為が含まれるであろうし、人によっては、言葉遊び、命令、拘束、鞭打ち‥‥、等を「性的行為」に欠かせないものとして営んでいるだろうから、いったいにそのどれを指して「わいせつ」と判断しているのか尋ねたくもなるが、しかしここで際だっているのは、それら具体的指摘をいともあっさりと省略し「わいせつ」なる言葉をいきなり投げかけることで、「性的行為」のすべてを「わいせつ」と断じてしまうかのような乱暴さである。具体的事実の省略と命名(「わいせつ」と名付ける)はときに(いま思わず、言葉遊び、命令、拘束、鞭打ち‥‥、と想像を巡らせてしまったように)、命名された内容の詮索や連想へと聞く者を誘い出すものであるが、いま管理官に求められているのが講談や漫才ではなく、(何をもって「わいせつ」とするのかを含めた)摘発の根拠についての説明であるからには、その省略と粗雑な断定を取りつくろいたいという思惑によって、(事実に反する)何らかの「強制」を仄めかそうとする言葉、つまり「させる」を使用「させられた」のも無理からぬことであろう。
 さらに管理官は、こういった指弾のはさまる余地に怯えるかのように先を急ぎ「また逆に」とすぐさま続け(矛盾する命題を同値関係に置くかのように)、「客はそれのみを目的にして」店に行くのだと、「のみ」という言葉にことさら強くアクセントを置いて訴えるのだが、店の「売り」と客の「買い」が一致しなければ商売そのものが成立しないという消費社会の常識に照らし合わせてみれば、客の行動はわざわざ言い立てることもないごく当り前のものである。先に見たようにこの管理官は「わいせつ!」と叫んでいるか、せいぜいのところ「それは摘発に値する」と仄めかしているにすぎず、店内で何らかの「性的行為」が行われていると解釈できること以外には何も語ってはいないのだが、この「のみ」の強調は、みずからが陥っている事態を本人自身がよく知っているということを端的に示しているであろう。つまり、(客の利用目的が一つの)カップル喫茶と、いわゆる普通の(待ち合わせや時間つぶしといった様々な目的をもって客が利用する)喫茶店との差異を際立たせることによって、カップル喫茶の特別視へと聴衆を導こうとする窮屈な振る舞いが、この「のみ」に露呈しているのである。
 わずか二十秒ほどの出演時間の間に贅沢ともいえるほどの振る舞いを演じた管理官、渋沢次男氏につづいて登場したのは、作戦の成功に自信をもっているらしき捜査員だったが、ふたたび渋沢氏の三つの単語を受け取るかたちで二つの説明をつけ加えたのであり、ここにおいて出揃った二人の警察官による四つの言説を、繰り返しを厭わずに順を追って書き記しておくと次のようになる。
(1)「店が客にわいせつ行為をさせる」
(2)「客はわいせつ行為のみを目的に店に行く」
(3)「(店内で)客がわいせつ行為を行う」
(4)「わいせつ行為が店内のお客さんから見える」
 まるで「店」「客」「わいせつ」の三つの単語を任意に組み合わせることによって、言説を自在に作り上げていく光景が眺めやれるようだが、そうした繰り返しのあげくに、「公然わいせつ」なる容疑の内容(「お客さんから見える」)がおぼろげながら登場してきたという印象である。しかしそれにしても、ひときわ目を引くのは「お客さん」という言葉ではないだろうか。先の管理官によれば、「客」は「わいせつ行為のみを目的に店に行く」ような言わばふしだらな客であり、摘発の対象ですらあるのだから、「お」客「さん」というのは奇異な印象を与えずにはおかない。すなわちここでは、このひどく場違いな丁寧語こそが次のことを雄弁に物語っていると言えるだろう。つまり捜査員は、お互いに「見える」ように店を設計した店主の犯罪性を説明したかったのかもしれないが、それを強調したいという思いがいつの間にか、存在しないはずの(普通の喫茶店の)「お客さん」をカップル喫茶内に存在させてしまったのである。そしてさらに言えば、客は「見せられる」ことを承知で入店しているのだから、見せられて損害を被っているはずもなく、むしろ全く「見えない」としたらそれこそ詐欺だというべきであるが、見たくないものを見せられて損害を被った客(ふたたび想像をたくましくして、勘違いで入場してしまったものの、きっかけをつかめずに退場できずにいる情景をかろうじて思い描くことができるが)があたかも存在するかのように言い、「公然わいせつ」の被害者に仕立て上げようとする意図がこの「お」客「さん」に込められているのである。
 番組の編集過程で重要な部分が抜け落ちているとは考えにくく(のちに述べるように番組は警察の摘発を支持しているのであり)、また摘発の理由が「わいせつ」であるかぎり、さきに羅列した四つが警察の見解だと受け取って差し支えないだろう。客の行う性的行為自体が摘発の対象になるのか(性的行為のうちの何かあるいは全部を「わいせつ」と言い切っているらしい)、「見える」から「わいせつ」になるのか(性的行為自体は「わいせつ」でないとすると)、嫌がってはいない(むしろそれを望んでいる)相手に性的行為を見せるということが摘発の対象であるのか(たぶんそうであろう)、あるいは「見える」ように客席を配置したことが摘発の対象になるのか、それにそもそも「わいせつ」とは何か(摘発についての四つの言説は「わいせつ=悪」という一つの隠された命題によって支えられているのだから)、と次々と疑問がわき、そのいずれであったとしても理由を問い質したくなる曖昧さであり、こんないい加減なことで摘発されてはたまらないという感想が先にくるが、これらの言説はそのいい加減さを取りつくろうためにこそ、「させる」と口を滑らせたり、「それのみ」と強調してみたり、ありもしない「お客さん」の存在を仮想したりして、何かとんでもないことが行われているかのように印象づける振る舞いをともなっているのだと言わなければならない。
 橋爪大三郎は、権力が禁圧する「猥褻」と習俗が抑圧する「ワイセツ」とを区別し、「ワイセツ」は実体ではなく、性愛領域と社会領域の(人類に本質的な)分離によって生じる社会的文脈に依存するものであるとし(しかし権力はワイセツを実体(猥褻)として存在するものと信じ込ませたい)、例えば刑法一七四条[公然わいせつ](「公然猥褻ノ行為ヲ為シタル者ハ六月以下ノ懲役若クハ三十万円以下ノ罰金又ハ拘留若クハ科料ニ処ス」)については、習俗の抑圧にまかせておくべきものとして、不要ないし不適当と主張しているが(「性愛論」岩波書店)、いま見てきた警察の言説と振る舞いは、摘発されるべき何物か(猥褻)が存在するかのように意図しているという意味でワイセツの実体化(わいせつ実体論)であり、しかしまたそれらは、あたかも自然にあふれだすかのように語られ、知らぬ間にはしたなくもある姿で演じさせられるという意味では、「猥褻」なるもののもつ力の発動をあらわにしているとも言えるだろう。
 ところで「猥褻」とは、「いたずらに性欲を興奮、または刺激せしめ、かつ通常人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」(「サンデー娯楽」事件、一九五一年五月十日最高裁判所判例)と定義されるのが通例となっているが、カップル喫茶で性的行為を見せ合う客について言えば、「性欲を興奮、または刺激」することを目的としてはいるが、その実践においては「いたずらに」などという無自覚で無軌道なものでなく、見せ合う相手の選択、そのタイミング、同伴者及び相手方カップルへの気遣い等、きわめて自制的で繊細な身構えが要求されるはずであり、「いたずら」な態度は雰囲気を白けたものにし、刺激をむしろ減じせしめると推察できるのである。そしてまた「猥褻」と判断されるための必要条件(判例文の「かつ」以下)について言えば、客の行為が(店外の)「通常人」にとっては「異常」なものであったとしても、それに同意した者たち(彼らも「通常人」であることに変わりないだろう)が集う空間の中で行われている限り、「通常人の正常な羞恥心」を害してはおらず(「善良な性的道義観念に反する」かどうかは課題としておくとしても)必要条件を満たしているとは言えないのであり、以上のことから最高裁判例に照らして見た場合、カップル喫茶内における客の行為は「猥褻ではない!」と叫ぶことができ、刑法第一七四条を見るまでもなく、「摘発できないはずだ」と仄めかしておきたい。
 さて、番組の方はいよいよ佳境に入っており、現場へとひた走る数台の覆面パトカー、店内に潜入した内偵と連絡を取りあう刑事の声、と臨場感を盛り上げつつ、ナレーションが重ねられていく。「容疑は公然わいせつ罪。世間で言う変態趣味の男女の摘発である。劣情を公然と刺激する行為は罪である。覚えておいたほうがいい」「問題の店はあろうことか、人々が平和に暮らすマンションが立ち並ぶそのただ中にあった」「警察官のカップルが内偵のために店に潜入する。ミイラ取りがミイラにならなければよいが、と思うのは俗人の下衆な考えである」「大勢の警察官が見たこともないめくるめく世界へ踏み込む‥‥‥」
 そしていよいよ突入した逮捕現場においては、潜入していた女性捜査員の「私、私、私です!」と人違いに怯える声や、「こらっ、動くなよ、こらっ!」「動くな!」「そのままやっ!」「そのままにしとけいうとんのや!」と怒鳴り散らす刑事たちの声が飛び交ったが、映像はそれらをさらに画面いっぱいのテロップで写し出し、さらには証拠写真を撮るシャッターの音に合わせて静止画像を挿入するという劇画づくりであり、また、捕り物劇の一段落したのちには(二組が「公然わいせつ」現行犯で逮捕される)、連行されるカップルの姿に一転して道化めいた音楽を重ね、店長の(「公然わいせつ幇助」)逮捕においては、店が主催したパーティーの写真についての問答、繁盛ぶりを示す張り紙、売上金を数える捜査員の手つき、を追う念の入れようである。
 そしてナレーションは、「愛情交歓は罪であろうはずもない。が、互いが目撃し合うところに公然のワイセツ性がある。またこうした秘密の喫茶店は、売春の巣になりやすいし、暴力団の資金源ともなる。犯罪防止の意味をもったガサ入れでもあるのだ」などと逮捕を煽り立てるように断じているのだったが、これら採録したナレーションには、性にまつわる問題を取り上げて声高に叫ぶときに人がよって立つ言説とその振る舞いが、ほとんど出揃っているといっても過言ではないだろう。
 順を追って列挙するならば、以下のようになる。

(1)「世間で言う変態趣味の男女の摘発」(少数者差別)
それが行為ではなく人間そのものを対象とする文脈で語られるとき、「摘発」は「摘出」と聞きちがえるかのような効果を持つのであり、「趣味の摘発」ではなく「男女の摘発」だとするこの言い回しは「趣味」とつけ加えることで逆に、「変態」にも趣味以外の日常があるということを想起させまいとする。この社会には「変態趣味」なる種族が人知れず棲息しているのだと不安をあおり、それら不穏分子の摘出に喝采を浴びせるかのごとくである。しかしそれにしても、もし別の言葉に置き換えるならば「性的倒錯者」となるときにその用語がともなう医学的見地をあらかじめ禁じておきたいためにか、あるいは「世間」を枕にすることで責任回避を図ったつもりか、いずれにしてもここで無神経に投げつけられた「変態」なる言葉については指摘しておかなくてはならない。「変態(性的倒錯者)」とは、(精神医学を含めた)「世間」がよってたかるかのように命名するからこそ「変態」となるものであるならば、「変態」も「わいせつ」と同じく、実体ではないかもしれない、と覚えておいたほうがいいだろう。命名をくりかえすことによって差異を(幻想的に)実体化しつつ、それを排除する安心感を得ようとすることこそ、少数者差別に加担するときの心の振る舞いである。

(2)「覚えておいたほうがいい」(「性=本能」論)
 相手の弱点を白日のもとにさらしてしまったりはせず、秘密を握っているのだと相手に確実に悟らせることができる状況でこそ、恫喝が最大の効果をもちうるのだとすれば、この「覚えておいたほうがいい」という一言は、きわめて有効な脅しとなっていると言わねばならない。この助言めかした声は、誰もが誘惑に屈しそうになった経験を一度や二度はもったことがある(あるいは実際にそういった行為に及んだことがある)という事実を、「知っているぞ」と囁きかけているからである。そしてまた、秘密そのものが存在しなければこういった恫喝が成立しないのであってみれば、「知っているぞ」と囁く者はその存在を少しも疑ってはいないのであり、さらに視聴者全体(「見せ合うこと」には関心がないかもしれない人を含めた)を相手にしているからには、その疑いもなく存在するものとは、自己管理の手をゆるめたりすれば知らぬ間に法を犯す原因となってしまうといった性質をもつ、「性」なるものであろう。ときに制御しがたく人を社会から逸脱させるエネルギーをもっているがために、常に注意深く飼い慣らしておかなければ破滅へと導いてしまうと考えられているもの、それをある種の「本能」だと呼ぶのならば(「本能」も「わいせつ」や「変態」と同じく「言葉」にすぎないかもしれないが)、「性=本能」とするイデオロギーなくして、この恫喝は有り得なかったと言うべきであろう。

(3)「あろうことか、人々が平和に暮らすそのただ中」(「性=穢れ」隔離論)
 大げさに憤慨してみせるときには人はいつも、こんなことになろうとはこれっぽっちも思っていなかったと言い張っているのであり、相手に同意を求めつつ、問い返されたときには、いえ本当にと突き返す素振りをあらかじめ用意しているという意味で、胡散臭さがつねにつきまとっている。明治時代から現代まで一貫して続いてきた隔離政策を(「良家の子女を守るため」の売春地帯や「青少年に悪影響を与えないため」のラブホテル街の隔離の是非についてはひとまず置くとしても)、さらに推進せよと声高に叫ぶ者たちにまとわりついているのがこの胡散臭さであり、言いかえれば、ほの暗い欲望に身を焦がしたかもしれない(あるいはラブホテルを利用したかもしれない)自らの体験から聞こえてくるつぶやきを、すぐさま摘み取っていくのがこの「あろうことか」と大げさに憤慨する身振りである。それはそういった問い返しをあらかじめ禁じておきたいという根回しであり、不問に付しておこうと相手に訴える目配せに他ならない。そしてそれから先はあたかも一本道であるかのように、売春を職業とする者を「賤業婦」と呼ぶがごとくに隔離されなければならないものは「穢れ」となり、自らを「良家の子女」の側へと置いたつもりで、世の中には「変態」と善良な市民しかいないのだからあなたもこちら側にいるはずだと手招きする。隔離を唱和するときにはいつも、どちらが先に手招きするかの違いだけがあり、「あろうことか」と先に叫んだ者がその役割を演じるという約束があるかのようである。

(4)「俗人の下衆な考え」(警察官聖職論)
 「ミイラとりがミイラにならなければ」などと最低にくだらないと誰もが思う冗談をわざと言ってみせるのは、ある種の魅惑的なイメージさえ喚起させることでさらに追いうちをかけたいというよりは、「変態」を口を極めて罵っている声に帯び始めた「正義」や「聖人」の役柄を引き受けるつもりは初めからあるはずもなく、いえいえ私もいかがわしい欲望をもった「俗人」でございますとへりくだり、宙に舞ったラベルをここぞとばかりに警察官の額に貼りつける「下衆な」所業から、人々の目を逸らしたいからである。「穢らわしい」ものが反照的に「聖なる」ものを生み出し、またその逆も真なりと気づいた演説者がそんな言い逃れを用意するのは、たとえば逮捕されたカップルの中に警察官(や教師その他)が混じっていたといった絶好の機会には、「聖職者たるものが!」「聖職者さえ身を滅ぼす魅惑!」とその落差をもてあそび、いくらでも自在に言説をあやつる自由を手元においておきたいがためである。

(5)「愛情交歓は罪であろうはずがない」(「性=愛」論)
 事態が「性」をめぐっていることは誰の目にも明らかなこの番組において、「性交」はおろか「性的行為」という言葉すら一度も姿を現さないのは、むろん単なる偶然ではなく、それらは注意深く退けられているからであり、管理官渋沢次男氏が「わいせつ」なる一語を「店」や「客」のまわりに配置することで摘発の具体的対象をかたくなに隠蔽し、聴衆に連想を促すのと瓜ふたつの振る舞いを、番組自体が演じているからである。映像のクライマックスにいたって「罪ではない性行為がある」などと口を滑らせてしまったとしたら、台本は台無しの危機に晒されるであろう。なぜなら、せっかく築き上げた(「わいせつ」として)摘発されるべき「いかがわしいそれら」の中から、様々なバリエーションをもった「罪のない性行為」を、視聴者が探し出し始めてしまうからである。「愛情交歓」という言葉は「いかがわしくないそれ」というイメージを産出するのであり、視聴者の性をめぐる連想をたとえば善良な市民の寝室へと結びつけていく装置であると言えるだろう。もし試しに夫婦間の性行為しか認めぬのかと問いつめれば、恋人同士のそれを認めぬはずもなく、そもそも性欲自体を否定するつもりはありませんと自信たっぷりに答え、「不倫」や行きずりの関係はどうかとさらに追いかければ、それはテーマが違うと口ごもる(映像は「夫婦あり、不倫あり、行きずりあり、と種々雑多」と嘆いてみせたのちに「愛情交歓は罪ではない」と断じているのだった)。つまり、とにかくそんな問いかけをさせないための「愛情交歓」であり、愛さえあれば「不倫」も罪とは言えないといった心づもりを暗に示しながら、様々なバリエーションをもつはずの「それ」を「いかがわしさ」と「愛情」とに切り分けていくという意味で、「性=愛」のイデオロギーの表明に他ならないであろう。

(6)「売春の巣や暴力団の資金源になりやすい」(「売春=悪」論)
 判断に迷う悩ましい議論を打ち切るときにはつねにカタルシスが用いられていく。売春反対! 暴力反対! この唐突な、摘発の正当性に対する自信のなさの裏返しとも取れる「売春」や「暴力団」の導入は、管理官たちが「わいせつ=悪」という潜在的命題とともに演じた振る舞いを、「売春=悪」という命題によって再び繰り返すためのものであろう。あえて図式化すれば、「カップル喫茶=何かしら悪いもの(警察が摘発するのだから)」、「売春=悪」、「暴力団=悪」、ゆえに「カップル喫茶=売春の巣、暴力団の資金源になりやすい」、よって「カップル喫茶=悪」という論理の飛躍と堂々巡りであり、まるで、冤罪の可能性について議論しているときに「やっぱり人殺しはいかん!」と思考停止を迫るようなものである。売春の巣になるというならラブホテルやテレホンクラブ、そしてソープランドについての見解を問い質したくもなるだろうし、暴力団の資金源というなら、不法な収入を得ているのでない限り犯罪性を問うことはできない、とまず言うべきであるが、もし「売春の巣になりやすい」が、夕刊紙などが伝える新たな「紹介業者」(カップル喫茶に同伴する女性を紹介する)の登場を指しているのだとすれば、次のことを指摘しておきたい。つまり真面目な「変態趣味」の人はそういった疑似カップルを敬遠するはずであり、疑似カップルの出入りに応じて客足が遠のくという性質をもつカップル喫茶が店内での「売春」的行為を歓迎するとは考えにくく、したがって「売春の巣」となる可能性は、ラブホテルや一般の住居(自宅へ派遣する業者が以前から存在しているのだから)よりもことさら大きいとは言えないのである。ナレーションは、論理の飛躍をとりつくろうかのように「犯罪防止の意味をもったガサ入れでもある」などと最後に言い訳めいて付け加えているが、しかしもし「犯罪防止」が摘発の真の理由だとしたら、現在の法体系をくつがえす、恐るべき事態であると言わねばならないだろう。あってはならないはずの「別件逮捕」や予断による捜査が自白の強要とでっちあげを生み、多くの冤罪を作り出しているという事実を何度も思い返さなければならないばかりか、報道機関が自らの存在理由をもっとも高らかに掲げるところの「知る権利」が、権力の暴走を防止するためにこそ必要なものだとするならば、「犯罪防止の意味をもったガサ入れ」は、言い訳などというなまやさしいものではなく、メディアが自らの存在理由を放棄するに等しい宣言である。
 映像は、「風俗業界と保安課のいたちごっこはつづく」と締めくくり、夜がふけても消えることのない警察署の窓明かりをズームアップしたが、映像を追ってきた私たちの目の前に拡がっているのは、警察の意味不明な摘発をメディアがありとあらゆる言説を動員して(自らの存在理由を脅かしてまで)正当化していく光景であろう。
 しかしここで忘れずに付け加えておかなくてはならないのは、この特集番組が例にもれず、ゲストと司会者のコメントを差しはさむことによって次のテーマへと転じていく体裁をとっており(まるで視聴者の持つべき感想の模範例を示すかのように)、映像が終わった直後には、警察にへつらうような笑顔をある著名な男優に作らせ、「隠れてやればいいんですね」といった趣旨の発言をさせているということである。このコメントには番組の「わいせつ」に対するもう一つの態度が表われていると見るべきだろう。つまりこのほどよく秘密めいた暗号は、視聴者の「隠されたもの」を覗き見したいという欲求にうまくよりそっているのであり、男優の発言を受けた司会者の下卑た笑いは、番組がその欲求をもてあそんできたという事実を一気に露呈しているのである。それはナレーションにおいて動員された膨大な言説に比べればほんのわずかな表情しか垣間見せていないが、映像の扱うもう一つの「わいせつ」は、こんな刺戟的なこともありますよとつねに囁き、これからもそんな気分にさせますからと誘いつづけているだろう。だからこそ、大勢の警察官が「見たこともないめくるめく世界へ踏み込む」のであり、慎重に選択されたに違いない証拠写真(若い女性客の下着姿をとらえた静止画像)が二度も提示されるのである。もしも本気で「わいせつ」を批判するのなら、こういった類の特集番組はもちろん成立しないであろう。
 つまり番組は、摘発を正当化する言説を自信たっぷりに浴びせると同時に、その裏側で視聴者を手招いているのだが、一視聴者に起こると予期されている意識に即して言うなら、映像の暴く見知らぬ世界や犠牲者のあらわな姿に自らの欲望を何かしらかきたてられつつ(性的欲望を刺戟したいという意味で、カップル喫茶に行ってみたいという欲望と、カップル喫茶摘発の映像を見たいという欲望に大きな違いはない)、たとえば人には「本能」としての「性」があり、自分にはいまのところ危険は迫ってはいないにしても、いつのまにか少数者として摘発される可能性がないわけでもないといった、安堵と不安の交錯を感じ取ることであろう。つまりこの番組の振る舞いと言説は、人々の新たな欲望をかきたてると同時に、その回収方法を周到に示唆し続けているのである。
 警察がカメラマンの同行を許可する理由もここにある。聖人君子である警察官が想像できないのと同じ程度に、カップル喫茶を心から不快だと思う人々を想像することはできないのであり、またそれと同じ程度に、番組が視聴者を刺戟しつつ放送するだろうということぐらい、警察はとっくに承知しているはずなのだ。警察は、人々が性的興奮をいくばくかかき立てられようと、摘発の正当性さえ疑問にさらされなければそれでいいのであり、言い換えれば警察の振る舞いは、「われわれが悪だと宣言した時にはそれに従え」ということであり、善悪の判断を独占させよという一点にかかっているのである。そしてこの一見理不尽な要求は、次々と湧き出る言説によってごくあっさりとその通路を確保してしまうであろう。「性」が「本能」であったり、ときに「穢れ」として排除されなければならなかったり、知らぬままに起こる逸脱の原因であったり、「愛」と結び付いていなければならなかったりしたときには、人は自らの「性」についての善悪をいったいどのように判断すればいいというのだろうか。そしてそれが誰かにゆだねられてしまうときには、少数者に対する偏見や無前提に悪とされる事柄が、最大限に利用されるのであろう。
 いま問うべきことは、それがある人々にとっては密かな愉しみのひとつであり、別の人々にとってはとりたてて目くじらをたてる必要もないはずのことですら、権力が摘発すると宣言した途端にそれが罪悪であると根拠づける言説が湧き出てしまうこの事態を、いったい何が強いているのかということであり、そのためには、それらがある種の納得をもって人々に受け入れられてしまうときの様相を、まずたどらなければならないのかもしれない。
 日頃は漠としているか、すっかり忘れさられているにちがいなく、ときに頭をもたげ、ときには気持ちを奪いとったきり離そうとはしないこの「私の」欲望、あるいは何度も思い返しては身を焦がし、ときには失望に似た後悔を導くだけかも知れない体験。そんなものの中の一つが、ひとたび悪として摘出されるとき、即座に「それ」は起動し、「変態」や「穢れ」や「売春」を連結させ、「人々の平和」や「愛情」やらとの間に境界線を走らせる。「それ」は、ついさっきまで心を占めていたかもしれないいがわしい欲望などすっかり忘れ去ってしまったかのように振る舞わせ、憤慨したり嘆いたりする自分の動機が、まるで自分の奥深い場所から出てきたかのように錯覚させてしまうかのようである。
 人は自らの領域だと信じ込んでいた場所に踏み込まれたときに、どんな声を上げるのであろうか。スパイだった女性捜査員のなじるような声、「私、私、私です!」は何度聞き直してみても、「貴方たちは何ですか!」と思わず口走ったに違いない誰かの、「動くな!」と凄まれたときに言い放つしかない抗議の声、「私は私です!」と聞こえてくるのだった。

■『ばらばら』性の研究会会報第2号(1996年12月20日発行)掲載
■(かとうしょうたろう)1960年頃生れ。高校教員。いろんなことにいっとき没入するが、すぐに忘れる。「性の研究会」参加(会報「ばらばら」発行)。とある舞踊家を熱く支持。仲間たちで編集した「教育の『靖国』……教育史の空白・教育塔」(樹花舎)が発売中。新しい人と出会うたびにいつも勉強し直したいとは思っている。




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