『GO』金城一紀(講談社)

評者・村田 豪


 本書は今年上半期の直木賞を受賞し、新聞や雑誌でも大きく取り上げられました。作者はそれまでほとんど無名に近い新人でしたが、好評でもって迎えられているようです。そして、その評判を支えていたのは、本作が在日朝鮮人・韓国人の抱える問題をかなり積極的に素材にしている点、にもかかわらず青春小説(あるいはエンターテイメント)としてすぐれている点、明確にこの二点にあるようでした。
 しかし、二点をつなぐ「にもかかわらず」という言葉づかいには、少し考察が必要だと私は考えました。というのもこの小説自体が、「在日問題と青春小説との関係はいかなるものか」という問いを発しているのであって、その答えを「にもかかわらず」に限定し、定式化してしまうのは、やや乱暴に思われるからです。
 確かに出だしから絶妙だと思うのです。もともと北の国籍を持ちマルクス主義者だった主人公の父親が、ハワイに保養に行きたくなった、というそんないわば「不純」な動機だけで、それまでの信条もそっちのけであっけなく韓国籍に変更してしまう、というエピソードで始まるのですから。小説とは分かりつつも「嘘でしょう」とでも言いたくなるような話です(もちろん「本当」であっていいわけですが)。
 しかし気をつけなくてはいけないのは、在日の事情みたいなものを説明するときに、主人公(あるいは作者)は、「面白く書きたいのだけれど、このあたりのことは面白く書きようがない」としきりに繰り返していることです。もちろんこれは額面通り受け取るわけにはいきません。というのも、作者はそれらのエピソードをもともと「面白くない」などとは思っていないだろうからです。むしろ「いわゆる『在日問題』が突きつける息苦しさは、ここにはありませんよ」というさりげないメッセージになっていて、そういう書き手の身振りに緩められるとき、思わず「在日を扱いながら、にもかかわらず面白い」という言葉づかいが現れるのではないでしょうか。
 だから作者自身にも「にもかかわらず」をめざす意識は十分にあったわけでしょうが、主人公を通して経験される「在日」と「青春」の関係、「問題性」と「エンターテイメント」の関係は、やはりもう少し複雑なものになっています。  それが一番顕著なのは、主人公が好きになる女の子との関係においてです。普段「差別なんか慣れっこで痛くもかゆくもない、けど気分悪いからボコボコにやっつける」というような姿勢を隠さない主人公が、一方で日本人としての無自覚さが露呈してしまう彼女の言葉に何一つ反応できない。いきおい自分が在日であることを「隠して」しまうのですが(もちろん「隠していたかのように」されてしまうのですが)、そのとき主人公の見舞われるジレンマは切実です。なぜなら自分もある意味では彼女と同じように、相手がどのような人間であるか問うことなく無自覚に好きになったのであり、そうであるならば、彼女にたいして普段のようには無知と偏見を指摘しきれないからです。いつもは近づく日本人を「敵」だとみなすのに、彼女との出会いでは、ほとんど無意識にそんなささくれだった意識を希薄にしていたのでした。
 ここで主人公が維持していた区分は、曖昧になってしまっています。今までは在日もふくめ「国籍など作られたものにすぎない、僕は僕だ」と、問題性を自分からより分けてそれで済んでいたのに、まさに自身固有の「青春」のただ中から問題は現れ、迫ってくることになるからです。作者は、たとえば人類史的な観点から現在の「国籍」という意識の恣意性を主人公に主張させますが、遠大なその議論を作品内でうまく消化させられていない点でも分かるように、主人公のこのジレンマをうまく主題化しているとは言えません。しかし「問題性」と「エンターテイメント」を身振りではより分けながらも、ふとした場面で、自身の出自にまつわる具体的なエピソードが沸き立つように書き込まれる本作は、「にもかかわらず」を「だからこそ」に反転させる契機を、いくつもの箇所で用意しているように思えるのでした。






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