「思想の科学」大阪グループ・レジュメの一部から



インフォームド・コンセントと自己決定


■日 時:1996年11月23日
■場 所:ドーンセンター
■報告者:山本繁樹

■なぜインフォームド・コンセント(IC)なのか
<歴史的展開>
ニュールンベルグ綱領(1945/11〜1946/10のニュールンベルグ裁判)→ヘルシンキ宣言(1946)→ 健康権(人権主義)→消費者主義(根底にあるのは、医療に対する不信)
たとえば、アメリカでは人権意識の高まりから医療訴訟の続発、そこで医療側は防策衛としてICを取り入れる、などの経緯がある。(同意書の作成など)
1973年「患者の権利章典」(全米病院協会)「患者は思いやりのある人格を尊重したケアを受ける権利がある」

<ICの意味することは>
 1)「説明と同意」−−日本医師会の和訳(医師会はICを使用したがらない。何故か、ICには「自己決定権」のニュアンスが含まれるから)
 2)「医療の現場では、医師は必ず、患者に病状を説明して、どういう処置をするか説明し、患者の同意を得たうえで、それから治療をするということ」(水野肇)
 3)「理解と選択」−− ささえあい医療人権センター(COML)の意訳
 4)「正しい説明を受け理解した上での自主的な選択・同意・拒否」(某市民団体)
 5)医療者側は、ICにおいて患者側を誘導してはならない。
 6)「患者が本当に欲しがっている情報を知らせる、言い換えれば患者の自己決定を助けるということであって、医学的情報を何でも出すということではない」(中川米造)

<ICをめぐる五つの反対論>
 1)患者は治療上の危険は知りたくないのではないか。
 2)説明しても情報を理解できない患者がある。
 3)患者に自己決定権を与えても、患者は医師のいうがままに治療を受けるので無意味だ。
 4)患者に与える情報によっては、患者がショックを受けて不利益な結果をもたらす。
 5)ICをしていると時間がかかりすぎる。
 (水野肇「インフォームド・コンセント」中公新書より)
 以上は、まさにパータナリズム(温情的父権主義)に基づいているといわざるをえない。

■「医学」と「医療」の差異について
 1)医学は「自然科学」であるのか(なぜ「医療過誤」は発生するのか/不確実性の医学)
 2)「自然科学的医学」による人体実験(患者をマテリアルとして扱う)
 3)現在は要素還元主義の行き詰まり(近代医学の中心は心身二元論に基づく機械モデル)が自覚・問題化されている。心身医学、精神神経免疫学(PNI)などが登場。
 4)医療は「医学の社会的応用」として定義される(大学病院・医局の支配)が、本来は「コミュニケーションとしての医療」(中川米造)であるべきである。

■「専門家−素人モデル」から「患者中心−医療者援助モデル」への転換
 1)「お任せ医療」から「自分で選ぶ医療」へのパラダイムシフト−パターナリズム「由らしむべし、知らしむべからず」(孔子)からの脱却−専門家支配からの解放
 2)患者本位の医療は、ほんとうに成立するのか。
 3)患者が医療に参加するとは如何なることか。
 4)患者が主体的/従属的(自発的服従)になることの両義性を、如何に捉えるか。(医療のパラダイムに自発的に取り込まれることの問題?)
 5)医学(特に予防医学)における恩恵と権力化
医療の世界化/医学によるラベリング(正常/異常)/健康モデルによる差別の隠蔽,etc
 6)医療における消費者主義の台頭と病院経営の近代化のセット(その成果と疑問点)
「入院時検査・治療等説明・同意書」二連複写式(岡山中央病院,etc)
 7)しかし本質的な問題として、患者側は医療者との「非対称性」を乗り越えられるのか。

■医療における「消費者モデル」
 1)「サービスとしての医療」への転換(中川米造)
 2)ICによる診療報酬(「知る権利」の保障)と病院経営はセットとして捉えられる方向にある。
 3)カルテの公開−「わたしのカルテ手帳」守口市・橋本医院、「健康管理ファイル」渋谷区・クロス病院,etc
 4)セカンド・オピニオンの要求
 5)患者からの苦情箱の設置(聞聞ボックス/岡山中央病院,etc)
 6)年中無休診療(東住吉区/森本病院,etc)
 7)院内広報(冊子・新聞・電光掲示ニュース・パソコンを利用した院内広報システム)
 8)薬剤師の服薬指導や、薬の名称や用法・効能などを文書で提供すれば診療報酬がつく。
 9)蛇足として−「ニセ医者」ほど患者の訴えをよく聴くというが、ほんとうか。

■病院の現況
 1)患者が病院を選ぶ時代に突入
 2)全国の病院の70%が赤字経営−「産業界並にコスト削減とサービス向上に必要なインフラの整備」亀田総合病院・亀田総合研究所、健全経営が医療の質を保障
 3)医療のアウトソーシングの効用と弊害(8,000億円市場)−病院食の多様化、検査・中央材料部・カルテ・データ保存処理などの外注化、医療スタッフの人材派遣。そのことによって、医療者が本来の医療業務に専心できる。(医療の品質保障)
 4)医薬分業−調剤薬局市場/1兆億円、2000年には3兆円規模に拡大(薬価差益/かつては50%、現在は10〜20%台までに低下)
 5)在宅医療−「生命の宅急便」バクスターと日本通運による業務提携
 6)病院内のネットワーク化の効用と弊害−電子カルテ,etc

■「自己決定」とは如何なることか
 これを分解すると、「自己」が「決定する」ことである。
 またこの場合の自己を分解すれば、
 1)近代主義的主体としての自己(合理的自由人)
 2)社会契約主体としての自己(権利上の個人=individual being、公人としての市民)
 3)個体的(私的)所有としての自己(private being=「私の生、私の死」)
 4)消費(経済)主体としての自己(私が「私の医療」を買う)
 5)自閉した自己(自己完結した内面性を有する私、直立した「この私」、実存としての私)
 6)関係としての自己(「共鳴する私」あるいは「我−汝」)
 7)身体としての自己(近代的身体観−「医療化された身体/他者としての病気」)
 8)フィクションとしての自己(同質・同型の記号化された主体)
などのように、医療場面での「自己決定」はさまざまなレベルの自己が重層的に出現し、選択・決定を実存的に強いられるわけだが、選択・決定が、常に主体的であるとは限らない。(あるいは、決定しない自由・権利?)

■「主体的決定」とは
 1)自己が「私の責任」において私が選び「私の結果」を受け入れることであり、他者にその結果責任を転嫁しないことを意味するのであろうか。
 2)医療の場面では、患者が選択・決定したことの「医療結果」に対して、患者は「共同責任」を問われるべきではない、という意見がある。なぜ? 治療をするのは医者であり、治療を受けるのは患者なのだから。(医療者に「委ねること」の不可避性)

■絶対的他者としての医学
 1)「患者」と「医者」の関係における非対称性は、乗り越えられるであろうか。
 2)患者と医者とは、「医学モデル」の文脈で成立する。
 3)病人(sick person)と患者(patient)はイコールではない。
 4)医療人類学による「病い(illenss)/疾病(disease)」の二分法
 5)構成される患者
 「病いのリアリティー」ではなく近代医学の「医学モデル」と近代医療システムの権力構造によって構成される。(I・イリッチ「生きる思想」・藤原書店,佐藤純一)
 6)西欧近代医学のイデオロギーは、心身二元論に基づいた機械論モデルであり、治療基本理論は、疾病論としての特定病因論と科学主義、治療戦略としての専門家支配と医療化である。(近代西欧社会に支配的なエトスを下敷きにしている)

■「医者患者関係論」とは
 1)医学(理論・権力)が、現象的には医者という存在を通して現出する、という前提。
 2)医者という人間と患者という人間関係が、医療行為の本質的部分である、という視点が含まれている。
 3)しかし、@については、近代医療の飽くなき医療化は「医者の姿が見えないまま、自ら医学的に診断し、自らに治療する病人・患者の姿」(佐藤純一)が現出している。
 4)そしてAにおける「医者/患者の非対称性(看る者/看られる者)」批判として、
  A)アルカイックモデル
   非対称性は近代医療の近代的規定性によるものであるから、伝統医療や宗教治療の中に医療者患者関係にユートピアを垣間み、「共感」「触れ合い」「癒し」などのカテゴリーで非対称性が中和される、とする。
  B)啓蒙モデル
   医療の近代化、近代的人権意識と医学的知識の普及が、非対称性を解消する。(ICの導入)
 5)ところが、
  自分と異なる他者、つまり異なる言語ゲームに属する他者との交流(コミュニケーション)を「対話」と呼ぶなら、このような医者患者関係は、「教える−学ぶ関係」と同様に、非対称性・共約不可能性がゆえに成立する「対話」関係であり、これは社会的交流=「交換関係」であることになる。この「交換」は、非対称的な他者同士を等置化する翻訳作業や、何らかの合理的な根拠によって成立するものではなく、むしろそれらとは無関係に、「慣習」とも言うべき社会的過程として成立するのである。(佐藤純一)
 6)この視点から捉えなおせば、
  このような「交換関係」を支える力は人間の欲望であり想像力であり、それは医者患者関係においては、「治りたい・治したい」という「意志」でもある。さらに飛躍して追加して言えば、「人が治る」という「治癒力」は、このような「非対称」の関係と欲望(想像力)によって形成されるものであり、この視点は、「医者患者関係のズレ(落差)こそ治癒力の源泉」という前近代的にも聞こえる経験的言説に、表現上は一致する。(以上@からEは、佐藤純一「臨床空間における自己と他者」昭和堂・刊『自己と他者』収録より引用・整理した)
 7)佐藤氏は、外科医でありかつ医療人類学者の立場から、通文化的に普遍的な治療者患者関係における非対称性を、経験的にも論理的にも措定できると考えている。
 それは急性期の患者においての「治療関係」には、概ね妥当するだろう。
 しかし慢性疾患の「病者」や終末期医療においては、「患者」ではなく「病者じしん」による主体的な「病い」に対する向かい合い(付き合い方、あるいは「和解」)が肝要であり、その場合に医療者は専門知識を有する「援助者」であるべきであろう。
 またそこで行われるICは、病者の生き方を援助する性格のものとなるだろう。(cureからcareへ)
 そしてその場合に、病者と援助者の関係は「二項対立の関係」から「相互的関係」にシフトしていると考えられる。しかしそれでも構造的本質として「非対称性」は貫徹しているのだろうか。

■最後に
 人は生物学的ヒトとして病むわけではなく、たった独りで病むわけでもない。人は社会的関係性の中で「病人」になるのである。病人になるということは、その人の関わる関係が変化することでもある。(得永幸子『「病い」の存在論』・地湧社)

 そうであるならば「ICと自己決定」とは、
 単に医療の選択肢から医療内容を選択することに留まらず、他者との関係の中で相互主体的に「私をあるいは私たちを生きること」を選ぶことになるのではないか。
 そして更に踏み込んで、「他者に委ねること」(相互信頼−たとえば抱擁、SEX,etc、「自閉した自己」など、たかが知れている?)を肯定的に読み直してみれば、「関係における自己解放」も可能となる視点が導入できるのではないだろうか。(世界を支援せよ!)

■参考資料の一部
水野肇「インフォームド・コンセント」中公新書
中川米造「サービスとしての医療」農文協
佐藤純一「臨床空間における自己と他者」(『自己と他者』昭和堂)
ささえあい医療人権センターCOML編「語り合う医療−患者のおもい、医療者のこころ」創元社
鈴木利廣「患者の権利とは何か」岩波ブックレット
藤田真一「患者本位のこんな病院」岩波ブックレット
別冊宝島151「看護婦の世界」 別冊宝島152「病院で死ぬ」(以上、宝島社)
小松美彦「死は共鳴する」勁草書房
日経産業新聞社編「医療ビジネス新時代」日本経済新聞社
柄谷行人「探求 1」講談社
森山公夫・小林昌廣対談「精神と医学、精神の医学−心と身体をめぐって」(「ら・るな」創刊号)るな書房



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