『teens 1996-2000』広末涼子(集英社)
『WATER LOVING』深田恭子(主婦と生活社)

評者・村田 豪


 いわゆる美少女と呼ばれるようなアイドルの写真集が抱えている「価値」についての問題を、十分に説明するのは生半可ではありません。通常彼女たちは、グラビアでは青年誌や週刊誌の売れ行きを左右し、テレビCMでは企業イメージをあげ、ドラマでは視聴率を稼ぐ、といったように、その姿・形の美しさだけで圧倒的な商品価値を発揮しています。おそらくは市場の広告戦略のためにこそ、ヒロスエやフカキョンのようなアイドルは発掘され、育てられるのだと言っても過言ではないでしょう。
 ここでマルクス主義者やフェミニストなら、商品(広告)が隠し持つ、性的で資本主義的なイデオロギー性と「男性」主体の社会的視線の問題を指摘するでしょうが、しかしそうとしても、なぜかくも商品の方を口実にしてまで、彼女たちの姿を見つめなければ人々は気が済まないのでしょうか。ドラマを楽しみたいからではなく、ヒロスエを見たいがためにドラマを観るというような行動はざらにあるでしょうし、アイドルたちに注がれる視線ののべ時間みたいなものが算出されるなら、それは膨大なものになるでしょう。だからこの理屈から言えば、彼女たちの写真集は、その欲望を満たす理想的な商品(!)ということになるはずです。「使用価値」の塊みたいなものが逆説的に生じることになるわけです。ところが、今回取り上げた2冊を通覧して、実はそう単純ではないということに気づかされるのでした。
 まず、どちらの写真集も、ヌードはもちろん水着姿さえないので、「グラビア」という言葉から喚起されるような性−欲望的なイメージからはかなり遠いものです。化粧品やファッション雑誌の広告にそのまま利用できそうに思えるぐらいに、ここにはCMや広告でよく見かける彼女たちのいつもの姿が写真としてただ並べられてあるだけなのです。普段なら、広告や役柄への登用そのものが浮き上がってしまうぐらいに、その姿だけで強い魅力を発揮しているように思える彼女たちなのに、その同じような写真を並べたものは意外と面白みはなく、写真見本の風情さえたたえるぐらいなのです。
 いえ、このことこそが、ヒロスエやフカキョンのようなアイドルの特徴なのです。ヌードや水着のアイドルに対しては、性的な意識への働きかけの上で類似しながらも、「裸体」を見せない点で対立し、ファッション雑誌のモデルに対しては、服装の種類、ポーズの付け方できわめて類似しながら、衣装そのものに視線が集まらない点で対立しています。では彼女たちは何を見せているのか。それは他ならない、その顔なのです。しかも、これは完全に美的な観点から識別され、趣味判断されるような顔であり、こう言ってよければ、私たちはそこに人間の「理想の顔」を見いだすのです。証拠に、2冊ともにそれぞれの顔を中心に、写真は撮影され構成されています。
 おそらくこれには反論があるでしょう。「私はフカキョンなどちっともきれいだと思わない」「あなたがかわいいと思っているその感情は、ジェンダーの枠組みにおいてでしょ」当然の反応なのですが、しかし当該のアイドルたちがトップにまで上り詰めるまでには並でない回数の「美的判断」がくだされてきたはずだし、先に発した疑問「なぜこれほど見続けなければならないのか」の答えとしては、一人のアイドルを「美の範例」とし、それをもとに各自が自分のもつ「美の理想」を倦まずに点検している、としか言いようがないのではないでしょうか。しかもそれが「顔」を対象にしている点では、性−欲望的な意味合いではなく、むしろ、「美」を「善」への契機とみなしたカントにならって、「人倫的」理想へと眼差しが手向けられている、と仮定することもできるように思います。  「人間はどのようなものとしてあるべきか」ヒロスエたちに対する美的判断を通じて、私たちは、自分たちのあるべき姿、求めるべきかたちを探している、一度そう考えてみるのも無駄ではないでしょう。






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