『anan』連載のこのエッセイで初めて阿部和重を読んで、その面白さを見いだした人がいたなら、これは慧眼としかいいようがないでしょう。もちろん各回それぞれとぼけたようなユーモアにあふれていて、きっと多くの人を笑いに誘ったとは思うのですが、それでもなぜ「アベカズ」がこんなにも面白いのかを適切に指摘できる人はそんなにはいなかったと思います。ある意味では、このエッセイは「本当に一流の小説家が書いたのか?」と疑われかねないほど、内容も文章表現自体も「凡庸」としか言いようがないのです。 まず第一に気づくのは、この人は本気でこんなことを言っているのだろうか、という疑問が浮かんでくることです。場合によっては不真面目さが鼻につき、不愉快に感じ出す人もいるかもしれません。たとえば、芥川賞の候補に名を連ねながら落選の憂き目にあった鬱憤を晴らすためか、『anan』にぜひとも「小泉今日子文学賞」を設立してほしいと懇願してみたり、ドラマや映画の話の合間には、自分は「文壇のキムタク」と呼ばれてしかるべきだとか、ディカプリオに顔がそっくりだとかうそぶいてみたり、久しぶりに食した東北限定販売のマイナー菓子「オランダせんべい」の味に涙を流してみたり、と、そういった疑念を引き起こさせるような話がほとんどなのです。だから「アベカズ」を面白く思う人も、逆に面白くないと思う人も、この「不真面目さ」だけは共通に発見できるのではないでしょうか。 ただし同時に指摘しておかなければならないのは、内容の軽さに比べて、文章表現は逆に誇大だったり、深刻だったりしていることです。たとえば「オランダせんべい」を賞賛する際の「一つ食べてみた途端、まさに唯一無二の味であり、これ以上はあり得ない最高の旨さだと感じずにはいられなくなってしまう、それがオランダせんべいの凄さなのです」というような箇所は、それが顕著です。いうならば内容の軽さ・どうでもよさと、それを表現する文章の大袈裟さとのズレが、上記の「不真面目さ」を醸し出しているのです。言葉が文字通り受けとめにくく、今風にいうと「パフォーマティヴ」な効果をもっているといえるでしょう。 しかしそれだけなら、ほかの作家でもよくやることにすぎません。真面目なことを軽く、どうでもいいことを真面目に、などとひねるのは多くの作家が思いつくことです。ところが、彼らがいわば「真面目なんてごめんだね」とうそぶきながら、そのパフォーマティヴな効果においては、実は「不真面目さ」よりも「真面目さ」のほうが通常は圧倒的に際立っていることを思い出さなければなりません(村上春樹、高橋源一郎などを参照せよ)。これらの、素直すぎるとも言える効果への見通しの良さに対して、「アベカズ」の場合は、「どんなつもりで書いているのか」という不審さ(もちろん面白さ)を抱かせる意味では、効果への意識は、読者には徹底的に不透明であり、そこにこそ「アベカズ」の態度の「不真面目さ」があるのです。 もう一つ「不真面目さ」の証拠は、これこそ驚くべきことなのですが、エッセイの文体が短編「トライアングルズ」とほとんど同じだという事実です。著者は一編ごとに文体(あるいは語りの構造)を構築するタイプの書き手であるからには、このエッセイが書き手特有の「自然な」文体で書かれたわけでないことは明らかです。つまり「アベカズ」はエッセイに小説的手法をそのまま適用するような書き方をし、だから私たちは「これは小説なのかもしれない」という一抹の不安を抱かざるをえない。そうすると、以下の連載を開始するにあたっての著者の言葉はどう判断できるでしょう。「私は、小説でならそれなりに『芸』を駆使できるのだけれど、どうもこのようなエッセイでそれをやるのは苦手みたいなのです。」ここまでくると「嘘つき」呼ばわりしたくなるのですが、しかし語っているのはいわば「作中人物」なのだから、その「不真面目」さに苛立っても仕方ないというわけです。 |